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年
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上杉家の出来事 (景勝公・兼続公の時代)
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世の中の出来事
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1578
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謙信、関東出陣の命令を出す |
信長、御館の乱による越後国内の混乱に乗じ、越中(富山)を攻める |
| 謙信、京都から画工を招き、自画像を描かせる |
| 謙信、春日山城で急死(49) |
景勝(24)と景虎(25)が家督を争う〈御館の乱〉
北条氏政が景虎に付く。景勝は武田勝頼(信玄の息子)と和睦 |
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1579
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景虎が立てこもった御館を攻撃。景虎は鮫ヶ尾城(妙高市)に移る。
景勝、鮫ヶ尾城を攻め、景虎(26)は自害 |
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| 兼続(20)は重臣としてつかえる |
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| 景勝が上杉家の家督を相続する(25) |
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| 景勝、武田信玄の娘・菊姫と結婚 |
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1580
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「御館の乱」の後も抵抗を続ける栃尾城(長岡市)・三条城(三条市)を攻め、落城 |
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1581
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新発田城(新発田市)の新発田重家が織田信長と結び、景勝と対立 |
信長、前田利家に能登を与え、利家、七尾城に入る |
| 越中の城を信長に攻められる |
上杉家の重臣・直江信綱が春日山城で殺害される
兼続(22)、信綱の未亡人・お船と結婚
兼続、直江家を継ぎ、与板城主(長岡市)となる |
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1582
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景勝(28)、武田家滅亡後、信濃を織田軍と争う |
信長、武田勝頼を攻める。勝頼、自害。
武田家が滅びる〈天目山の戦い〉
〈山崎の戦い〉
豊臣秀吉、明智光秀を討つ |
上杉家の越中の拠点、魚津城(富山)が織田軍によって落城
《「本能寺の変」がおこる。信長、自害》
魚津城を攻めていた織田軍が撤退。上杉家滅亡の危機が去る |
景勝、「本能寺の変」後、北条氏直と川中島(長野)で対陣
氏直が撤退したため、川中島周辺を領土とする |
| 景勝に、前将軍・足利義昭から上洛の要請がある |
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1583
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景勝(29)、秀吉と書状を交わし、提携する |
〈賤ヶ岳の戦い〉
秀吉、柴田勝家を討つ |
| 「賤ヶ岳の戦い」のあと、秀吉に戦勝祝いを贈る |
| 上杉領内の信濃諸将に、徳川家康から謀反の働きかけがある |
| 新発田重家との戦いが続く |
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1584
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景勝(30)、信濃で、徳川・北条と結んだ武将を攻め、破る |
〈小牧・長久手の戦い〉
徳川家康、二万の兵で、秀吉軍の八万の兵を破る |
| 景勝、秀吉に甥を養子としておくる(甥…上条宜順の子) |
| 前田利家とともに佐々成政と戦う |
| 佐渡の平定のため、家臣を派遣 |
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1585
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景勝(31)・兼続(26)と秀吉・石田三成の四名が落水城(糸魚川市青海)で会談(落水の会談) |
秀吉、関白となる。四国平定 |
| 敵対していた家康方の真田昌幸が、家康を離れ、景勝を頼る |
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1586
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景勝(32)・兼続(27)、初めての上洛
秀吉から歓待を受ける
兼続は三成との親交を深める |
家康、上洛。秀吉との対立に終止符 |
| 秀吉より、新発田重家の討伐、佐渡の平定を命じられる |
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1587
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景勝(33)、新発田城落城、新発田重家を滅ぼす
御館の乱以降の内乱が治まる |
秀吉、九州平定 |
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1588
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景勝(34)・兼続(29)、二度目の上洛
秀吉は、兼続に豊臣の姓を与える |
秀吉、刀狩令を出す |
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1589
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景勝(35)、佐渡を平定。佐渡の支配は、兼続(30)が任される |
〈摺上原の戦い〉伊達政宗、会津(福島)の蘆名義広を攻め、滅ぼす |
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1590
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景勝(36)、秀吉の小田原城攻めの支援のため、前田利家とともに、松井田城(群馬)、八王子城(東京)などを落城させる |
秀吉、小田原の北条氏を攻め、小田原城落城。秀吉の天下統一
家康、江戸城に入る |
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1591
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秀吉、関白職を養子の豊臣秀次に譲る |
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1592
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景勝(38)・兼続(33)、朝鮮へ出陣のため、肥前・名護屋城(佐賀)に着陣 |
秀吉、朝鮮に出兵する |
| 景勝、秀吉の名代として朝鮮に渡る |
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1593
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景勝(39)、朝鮮の熊川に城を築き、帰国 |
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1594
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兼続(35)に長男・景明誕生 |
伏見城が完成。秀吉、入城する |
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1595
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金銀山の開発を進める |
関白・秀次、自害 |
| 越後国内で太閤検地が行われる。この検地をもとに「越後国郡絵図」が作成される |
| 伏見城下(京都)に土地を与えられ、上杉家の館を建設 |
| 兼続(36)、南化和尚より「前漢書」を贈られる |
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1596
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畿内(関西地方)で大地震が起こる |
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1597
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春日山城の改修工事が行われる |
秀吉、再び朝鮮に出兵する |
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1598
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景勝(44)、秀吉より、会津(百二十万石)への国替えが命じられる
兼続(39)には米沢(六万石)が与えられる
謙信の遺骸も会津へ移される
国替えの引っ越しは、兼続と三成によってすすめられる |
春日山城には、秀吉の家臣・堀秀治が入る
秀吉、死去 |
| 秀吉の死後、景勝は家康・利家などとともに五大老の一人として、国政を担うようになる |
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1599
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会津領内の道路、橋などの整備を進める |
豊臣秀頼、伏見城から大坂城へ移る。前田利家が補佐をする |
| 兼続(40)、南化和尚より「文鑑」を贈られる |
家康、秀吉の遺言に背き、他の大老から責められる |
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1600
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景勝(46)、会津に新しい城を築城。家康への謀反の疑いをかけられる |
家康、伊達政宗・最上義光に上杉のけん制を指示
〈関ヶ原の戦い〉美濃・関ヶ原(岐阜)にて、家康(東軍)と輝元・三成(西軍)が戦い、東軍勝利
三成、処刑される |
| 家康から、上洛を促す書状が届く |
| 兼続(41)、家康に反論の返書「直江状」を送る。家康が激怒 |
| 《家康、上杉討伐のため会津出兵、下野・小山(栃木)に着陣》 |
| 景勝、家康との戦を覚悟し、会津と下野の境・白川まで軍を進める |
| 《石田三成が、毛利輝元を盟主として挙兵する》 |
| 《家康、三成の挙兵を受けて、下野・小山(栃木)から西に反転》 |
| 景勝と兼続、反転する家康軍の追い打ちについて激論となるが、「謙信公の教えに背く」として会津に引き上げる |
| 兼続、最上軍を攻め、最上の居城、山形城に迫る |
| 兼続、長谷堂城(山形)を攻撃《長谷堂城の戦い》 |
| 景勝、東軍勝利の報により、兼続に撤退を指示 |
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1601
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景勝(47)、家康に謝罪。米沢(三十万石)に減封される |
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1602
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兼続(43)の父・樋口兼豊、死去 |
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1603
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上杉家、江戸城近くに土地を与えられ、館を建築 |
家康、征夷大将軍となり、江戸幕府を開く |
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1604
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景勝(50)の妻・菊姫、死去 |
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| 景勝の子、玉丸(後の定勝)誕生。母は、景勝の側室。しかし、産後の経過が悪く、死去 |
| 兼続(45)、家康の側近・本多正信の次男・政重を養子とし(直江勝吉)、長女・お松と結婚させる |
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1605
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この年、兼続(46)の次女と長女・お松が相次いで亡くなる |
徳川秀忠、征夷大将軍に任命 |
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1607
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兼続(48)、日本初の銅活字といわれる『文選』(直江版)の出版 |
福島城が完成。春日山城は廃城となる |
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1609
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景勝(55)の母・仙桃院(謙信の姉)、死去 |
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| 景勝、兼続の養子・直江勝吉と兼続の弟・実頼の娘を結婚させる |
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| 兼続(50)の長男・景明結婚 |
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1610
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謙信の三十三回忌 |
家康、松平忠輝を福島城主に任命 |
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1611
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兼続の養子・直江勝吉(本多政重)、直江家を離れ、加賀前田家の家臣として迎えられる |
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1614
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景勝(60)、伊達政宗などとともに、高田城の築城に携わる |
家康、大坂城を攻める〈大坂冬の陣〉 |
| 「大坂冬の陣」に家康の家臣として参戦 |
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1615
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「大坂夏の陣」に参戦 |
家康、再度大坂城を攻める。
大坂城落城、秀頼が自害。
豊臣家滅びる〈大坂夏の陣〉 |
| 兼続(56)の長男・景明、死去 |
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1616
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家康、死去 |
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1617
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日光(栃木)に東照宮が造られる |
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1619
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兼続(60)、江戸で死去 |
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1623
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景勝(69)、米沢城で死去。長男・上杉定勝が上杉家を相続 |
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1637
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兼続の妻・お船、死去 |
島原の乱がおこる |
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※( )内は現在の地名です
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