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小林古径年譜

印刷用ページを表示する 掲載日:2013年5月20日更新

1883年(明治16)
0歳 2月11日、小林株・ユウの次男として新潟県中頸城郡高田土橋町拾七番戸(現在の上越市大町一丁目)に生まれる。本名、茂。小林家は代々高田藩士で、父である株は新潟県内の逓信官吏を歴任した。

1887年(明治20)
4歳 9月1日、母ユウ死去。

1894年(明治27)
11歳 山田於莵三郎に日本画の手ほどきを受ける。

1895年(明治28)
12歳 青木香葩に学び、「秋香」の号をもらう。12月、兄弘死去。

1896年(明治29)
13歳 1月、父株死去。

1899年(明治32)
16歳 実業之日本社の石井勇の紹介で上京、梶田半古塾に入門し、「古径」の画号をもらう。本郷弓町の清水宜輝方に寄宿する。

1900年(明治33)
17歳 第8回共進会「竹生島」出品(三等褒状)、第9回共進会「一の谷」出品(一等褒状)

1901年(明治34)
18歳 第10回共進会「春霞」出品(二等褒状)、第11回共進会「敦盛」出品(一等褒状)

1902年(明治35)
19歳 第12回共進会「女三の宮」出品(一等褒状)、第13回共進会「妙音」出品(二等褒状)

1906年(明治39)
23歳 この頃、安田靫彦と知り合う。

1907年(明治40)
24歳 巽画会会員となる。師半古に推されて塾頭となる。

1910年(明治43)
27歳 安田靫彦、今村紫紅に誘われて紅児会に入会。

1912年(明治45)(大正元)
29歳 三好マスと結婚。第17回紅児会展出品の「伊蘇普物語」を岡倉天心がみて感動し、端渓の硯を贈って画壇への首途を祝う。

1913年(大正2)
30歳 8月、紅児会解散。

1914年(大正3)
31歳 日本美術院同人に推挙される。

1915年(大正4)
32歳 本郷から大森新井宿に転居する。

1917年(大正6)
34歳 4月、梶田半古死去。

1918年(大正7)
35歳 日本美術院評議員となる。

1920年(大正9)
37歳 馬込の農家住宅を購入。大森から馬込に通って画室として使うようになる。

1922年(大正11)
39歳 西洋美術を研究するため、日本美術院留学生として前田青邨とともに渡欧。

1923年(大正12)
40歳 前田青邨とともに大英博物館で伝顧がい之筆「女子箴図」の模写に従事する。8月、帰国する。

1934年(昭和9)
51歳 馬込の画室に隣接して住居を新築する。設計者は吉田五十八、棟梁は岡村仁三。

1935年(昭和10)
52歳 帝国美術院会員となる。

1936年(昭和11)
53歳 大森の画室を改修する。設計者は吉田五十八。

1939年(昭和14)
56歳 第2次世界大戦始まる。

1940年(昭和15)
57歳 紀元2600年奉祝展委員となる。

1941年(昭和16)
58歳 6月、日満美術展のため渡満。帰途、北京に寄り、10月帰国する。

1944年(昭和19)
61歳 6月、東京美術学校教授に就任する。7月、帝室技芸員となる。この年、戦争のため公募展などの開催を禁止する美術展覧会取扱要項が発表され、院展も中止される。

1945年(昭和20)
62歳 3月、山梨県に疎開する。8月15日、終戦。10月、馬込の自宅に戻る。

1949年(昭和24)
66歳 東京藝術大学教授となる。

1950年(昭和25)
67歳 11月3日、文化勲章を受章する。

1951年(昭和26)
68歳 文化功労者となる。10月、東京藝術大学教授を辞任する。

1952年(昭和27)
69歳 9月、第37回院展に「菖蒲」を出品する。院展への出品はこれが最後となる。

1955年(昭和30)
72歳 6月下旬より9月初旬まで神奈川県湯河原の天野屋にて静養する。

1956年(昭和31)
73歳 3月、慶応病院に入院する。

1957年(昭和32)
74歳 4月3日、死去。従三位勲二等旭日重光章を受章。法名「善光院茂誉古径居士」