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本画作品

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年12月9日更新

小林古径作品「少女」(画像)

「少女」
1898年(明治31)頃 絹本着彩
67.8×54.8cm

古径は11歳の頃から新潟で山田於兎三郎(おとさぶろう)と青木香葩(こうは)の二人の先生について日本画を学んでいる。
1899年(明治32年)7月、16才になった少年古径は日本画家を夢見て東京へ旅立った。そして当時新進気鋭の画家・梶田半古を訪ね入門を許された。
古径は1883年(明治16)、かつての榊原藩士であった小林家の二男として雪深い高田(現上越市)に生まれている。父の仕事の関係でまもなく新潟市に移り住んだが四才で母を亡くし、さらに祖母、兄、父を亡くして13才で妹と二人きりになってしまった。この苛酷な運命は多感な少年期の心に計り知れない悲しみを与えたに違いない。
この「少女」と題された作品は入門を許されて、師から「古径」の雅号をいただいた直後に世に出た作品である。制作は入門の前年、つまり15歳の時と考えられる。
肉親との縁に薄かった不幸の重圧下で描かれたにもかかわらずこの絵からは暗さは感じられない。画面を彩る暖色の色調、素朴で暖かみのある筆づかい、松竹梅の図柄の傘をさした少女の表情は実におっとりして明るい。牧歌的でぬくもりに満ちた絵である。

 

小林古径作品「丘」(画像)

「丘」
1951年(昭和26) 第16回清光会展 紙本着彩
50.6×69.4cm

1950年(昭和25)、古径は文化勲章を受章した。この「丘」はその翌年の作で、当時一流の日本画家、洋画家、彫刻家たちの集まりである「清光会」の第16回展出品作である。
朝靄の中、余白をたっぷりととった画面に、清楚な女性が二頭の子ヤギを連れて散歩している。異なった方向へ進もうとする子ヤギとそれを操る女性によって形作られた三角形の構図は、動きを含みながらも全体として安定感を画面に与えている。
一見さりげなく見える線はきわめて明快・簡潔でありかつ強靱である。彩色はあくまで透明で清澄感、清涼感にあふれている。まさに古径の円熟期にふさわしい作品である。
この作品に描かれている女性が食料難のこの時代に、ヤギの乳を古径にプレゼントしたというエピソードがあり、そのことへの感謝の気持ちが制作の動機かもしれない。また、「丘」という画題から、開放感に満ちた戦後の世相を反映した自由と希望の喜びのメッセージがこの絵に秘められているのではないかとも思える。

 

小林古径作品「牡丹」(画像)

「牡丹」
1951年(昭和26) 五月会展 紙本着彩
59.8×76.8cm

この作品は1951年(昭和26年)の五月会展に出品された。五月会は1947年(昭和22年)、日展・院展の第一線の日本画家8名による「五月会」を結成し、小林古径、奥村土牛、安田靫彦、前田青邨、福田平八郎、鏑木清方、榊原紫峰、菊池契月で構成された。高島屋本店で開催されたこの展覧会は1952年(昭和27年)の第6回展まで続いた。
古径は牡丹を画題とした作品を多く残している。大正時代から晩年まで牡丹を描きつづけており、それぞれに特徴がある。輪郭線を強調するものやあまり線描を用いず、色面による画面構成を行っているものもあり、バラエティーに富んでいる。また、この作品は展覧会に出品した最後の牡丹である。画面には白色と淡紅色の二つの牡丹を配している。淡紅色の方の牡丹は葉と茎を墨で描き、白色の牡丹は鮮やかな緑色を用い、その対照が見事である。背景を淡く墨で彩色することで画面全体に華やかなうちにも落ち着きを与え、気品のある美しさを作品に漂わせている。