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古径の代表作品

印刷用ページを表示する 掲載日:2010年12月9日更新

「髪」

作品「髪」(画像) (重要文化財) 173.5cm×108cm 昭和6年(1931年) 第18回再興院展 永青文庫蔵

切手になったことでも有名なこの「髪」は昭和6年の作品で、前年に発表された「清姫」とともに古径芸術の頂点ともいうべき代表的名作である。
湯上りの洗い髪を梳くという当時の一般家庭でよく見られた場面をテーマにしている。この作品で印象的なのは長い黒髪である。妹と思われるお河童髪の女性の左手に抱えられた髪は豊かな量感と見事な質感で捉えられており、古径が最も注意を注いで描いた部分と思われる。そしてこの長い髪が媒介となり、二人の女性が画面の中で巧みに構成されている。
強靭で簡潔な線、清涼感に満ちた二人の着物の彩色と配色、そしてさりげなくわずかにちりばめられた帯や唇などの赤。古径の研ぎ澄まされた近代的造形感覚が伝統を踏まえた形でこの作品に凝縮されている。
また、この画面全体からは姉妹間の情愛がそこはかとなく漂い、ふくよかながらも端正な二人の顔には俗人を超えた気品を感じることができる。

「異端」

作品「異端」(画像)  134cm×240cm 大正3年(1914年) 第1回再興院展 東京国立博物館蔵

この作品は3人の女性が蓮池の前で絵踏する場面を描いたものである。古径は明治44年には「踏絵」(第16回紅児会展)を、また明治45年には「極楽井」(第6回文展)、大正2年には「耶蘇降誕」(第19回紅児会展)を発表し、この頃「南蛮趣味」を積極的に作品に取り込んでいることがうかがえよう。また、女性の服装には近世風俗からの影響がみられる。当館所蔵の初期素描作品群にも「彦根屏風」や「松浦屏風」などの模写があり、近世風俗を習得しようとした痕跡がみられる。
中間色の淡い色調の中で、蓮花によって想起される仏教と絵踏に例えられるキリスト教が画面の中で互いに交差し、東洋と西洋の美的精神や宗教観をこの作品で表現しているものと思われる。
この作品は古径が31歳の時に制作されたもので、再興第1回院展に出品された。古径はその力量が認められて会期中に日本美術院同人に推挙された。

「阿弥陀堂」

作品「阿弥陀堂」(画像)  217cm×90.8cm 大正4年(1915年) 第2回再興院展 東京国立博物館蔵

この作品は大正4年の再興第2回院展に出品された作品である。この年に古径は大森新井宿へ転居しているが、この出来事も古径の画風に変化を与えたと考えられている。 作品の発表当時に田中滄浪子が朝日新聞で「昔は建築物といえば、所謂界線画法を以って描かれたもので、山水人物の中に介在するよりほかに殆ど意味のないものであった。それを古徑は全く新しい手法を以て取扱った」と評したように、人物などの生物を描かず建築物のみを主題に扱ったことは斬新に映り、古径は「阿弥陀堂」により画業における地位を築いたと評されることが多い。 早朝の薄明に立つ阿弥陀堂が描かれているが、作品の創作動機については研究の余地がある。修行者が阿弥陀如来の名を唱えながら極楽浄土への往生を願う「常行三昧」堂が阿弥陀堂と呼ばれるが、一般的に知られている「鳳凰堂」と題をつけずに阿弥陀堂としたところにも、「極楽井」「住吉詣」「異端」と発表してきた古径の生死観(宗教性)がうかがえるだろう。

「罌粟」

作品「罌粟」(画像) 165cm×99.6cm 大正10年(1921年) 第8回再興院展 東京国立博物館蔵

古径38歳の時の作品。
この作品を制作する前年の大正9年に東京・馬込の画室が完成し、完成後の画室で描いた初めての院展への出品作がこの「罌粟」である。
古径はこの頃、「いでゆ」(大正7年)、「麦」(大正8年)に代表されるように写実的な作品を多く制作しており、この作品もこの「写実主義的」傾向の作風を色濃く残している。
この作品は画室の庭で栽培していた罌粟を描いたもので、対象を的確に捉え、徹底的に写実をおこなっている。罌粟の持つ形状、色彩、表情などを実によく描きこみ、「くまどり」や「たらしこみ」など塗り方のあらゆる技法を駆使して、この作品を完成させた。
日本美術院の画家を支えた一人である横浜の豪商・原三渓(富太郎)は、当時この作品をみて「茎を折れば青くさい草の汁が匂うようだ」と言わしめたことは有名な話である。