川上善兵衛の紹介

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年2月28日更新

 川上善兵衛は、日本国産ワインの開発やワイン用ぶどうの品種改良に力を注ぎ、マスカット・ベーリーAを始め、日本の風土に適した優良品種を多数生み出しました。国産ワインの礎を築き上げた偉大な功績から、「日本のワインぶどうの父」と称される人物で、2018年、生誕150年の節目を迎えます。

岩の原葡萄園を開園する

川上善兵衛 岩の原葡萄園創業時(写真) 善兵衛は、1868年(慶応4年)3月10日、北方村(現在の上越市北方)の大地主・川上家の長男として生を受けます。芳太郎(よしたろう)と名付けられた少年は、幼くして父が他界するという不幸に見舞われ、わずか7歳で家督を相続します。川上家の当主は代々、「善兵衛」を襲名することがしきたりで、芳太郎は幼くして川上家の6代目当主・川上善兵衛となりました。

 当時の農村は豪雪や冷害に悩まされ、順調な収穫は3年に一度くらいしかなく疲弊していました。明治の文明開化・殖産興業の波が押し寄せる中、善兵衛は農村のこれからの未来を模索し、14歳の時上京をします。
 東京では、「学問のすすめ」で有名な福沢諭吉の慶應義塾に通ったほか、祖父の代から親交があり、自らも師と仰いだ勝海舟に教えを請い、多くを学びました。
 勝海舟は、咸臨丸を指揮して太平洋を横断したほか、西郷隆盛と会談し、江戸城無血開城を果たした人物です。
 こうした人々の教えから善兵衛は、大きな志を持つようになります。

 当時、明治政府は、近代化促進のためワイン造りについても農業の振興と輸入の増大を防ぐ目的から、各地で奨励しはじめていました。郷里に戻り、殖産興業・国利民福の必要性を感じていた善兵衛は、政府の動きに着目、ぶどう栽培とワイン造りに取り組むことにします。そして、約3年という月日をかけ、その道で有名な土屋龍憲・小澤善平などからぶどう栽培とワイン造りを学びました。
 1890年(明治23年)、周囲の心配をよそに、小作人たちの土地を取り上げることなく、代々川上家が受け継いできた自慢の庭園を壊して、耕作地として提供して「岩の原葡萄園」を開園いたしました。この時、善兵衛はわずか22歳という若さでした。

ぶどうの品種改良に生涯をささげる

岩の原葡萄園の様子 明治42年(1909年)頃(写真) 当初、経営に苦戦していた善兵衛ですが、石蔵などの設備の充実、雪を用いた低温発酵などの技術の駆使によって、生産量を増やしていき、事業は徐々に軌道に乗っていきました。
 1902年(明治35年)5月には皇太子(後の大正天皇)が岩の原葡萄園へ来遊し、園内を視察したのち、ワインを求めました。また、2年後の日露開戦ではぶどう酒が陸・海軍の衛生材料に採用され、岩の原葡萄園に大きな収益をもたらしました。

 しかし、当時のワインは栄養・保健的意味合いが強く、輸入ワインも安価で入ってきて、日露開戦以降、経営にかげりがではじめてきました。
 そこで善兵衛は、それまで外国品種を定着させることに取り組んできた方針を一転。わが国の気候風土に適し、良質ワインの原料となる新しいぶどうの生産に乗り出します。それは、ヨーロッパの優良種と、樹勢強健なアメリカ種を交配し、ひとつの新品種を世に出そうというもので、善兵衛54歳の時に大きな決断を下します。
 そして、ここから20数年という月日をかけて品種改良に取り組み、約1万株にも及ぶ品種改良の末に、ついに、善兵衛はマスカット・ベーリーAなど、川上新品種22種類を生み出しました。このうち一部の品種は今も栽培されています。

マスカット・ベーリーA(写真) 1941年、日本農学会は、この成果をまとめた善兵衛の論文「交配に依る葡萄品種の育成」に対し、最高位の「日本農学賞」を贈って、その功績を称えました。これは民間人としては初めてのことで、この時、善兵衛は73歳。急性肺炎でこの世を去る、わずか3年前の名誉でした。

 こうした善兵衛のワイン造りにかける熱い思いは、現在も岩の原葡萄園に息づいており、毎年優良なワインを世に送り出しています。