恵信尼(ゑしんに)は、この地方の豪族三善為教を父とし、1182年に生まれました。越後に配流された9歳年上の親鸞聖人と結婚し、男女6人の子どもに恵まれました。この地で7年の生活後、関東に約20年、その後京都で暮らされ、70歳を過ぎて越後に帰り、板倉の地で子や孫と過ごされ87歳の生涯を閉じたといわれています。
板倉区米増の五輪の石塔、樹齢600年を超えるこぶしの木の古株、そして古い地名や大正10年京都西本願寺宝庫から発見された恵信尼文書10通の手紙の中に恵信尼が石塔を建てたことが記されており、ここが晩年を過ごし生涯を閉じられた地であろうと推定されました。
親鸞の妻として、多くの子を育て、教えを貫いた「暖かい優しさと心の強さ」は、今も板倉の人々の心に息づいています。
増村度次(たくじ・号朴斎)は、東京で勉強した後故郷に帰り、28歳のときに私財を投じて有恒学舎(現在の有恒高校)を創立しました。
有恒学舎では地方の人材育成を目指し、質実な実践教育を行い、経営にあたった48年間で2,000人もの卒業生を世に送り出しました。朴斎の招請を受けた会津八一も4年間、教鞭をとっていることで知られています。
中村十作は、板倉区稲増の庄屋に生まれ、東京専門学校(現早稲田大学)を中退、海軍に入隊。明治25年、真珠養殖を志して、沖縄県宮古島へ渡りました。
明治維新の奔流に取り残された悪税「人頭税」に苦しむ島民のため、真珠養殖の事業を投げうって島民の先頭に立ち、廃税運動を始めました。幾多の迫害を乗り越え、明治36年、人頭税が廃止されました。中村十作の名は、宮古島で現在も語り継がれ、大和神としてお嶽に奉られています。