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魚の販売権をめぐる田端町と今町の争論

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印刷用ページを表示する 掲載日:2016年9月15日更新

 高田城下の田端町は、歴代の領主から魚の専売権を与えられていましたが、江戸時代の初期は、今町にも高田城下以外の在方(ざいかた)での魚の販売や他国への四十物(あいもの=魚の塩漬け、干魚)の出荷は認められていました。しかし、次第に田端町の専売権が強化されていきました。
 これに伴い、今町では、魚の自由販売を求めて町奉行へ嘆願書を提出したり、江戸評定所で田端町と対決したりするようになりました。

資料1「田端条目上巻1番、2番」(田端文書:仲町3丁目町内会所蔵)

田端条目は、福島城下以来、歴代の領主から下された通達を上・中・下3巻にまとめたものです。箱書きには「旧上下両田端へ代々の藩主様方、御領分の生魚全部の取扱を御命令・仰せ附を賜りたる書類なり」と記されており、田端町が大切に保管してきたものです。
上巻1番は、福島城主堀家が田端町に四十物の専売権を付与した通達です。同2番は、福島城下で経済的に困窮していた田端町に、松平忠輝の家臣が塩の小売りを認めた通達です。

田端条目(画像)

資料2「田端条目上巻7番 覚」(田端文書:仲町3丁目町内会所蔵)

高田開府後、50年余りが経過し、田端町の魚の専売権は盤石なものになっていました。当時の領主は松平光長ですが、このとき田端町に下された魚問屋にかかわる通達です。半月交代で、上田端町と下田端町が問屋を務めることのほか、問屋の軒数の制限、魚の値段のつけ方、鮮魚の取扱いは田端町に限定することなどが記されています。

上巻7番 覚書(写真)

資料3「生魚の販売にかかわる今町の嘆願書」(福永家文書:高田図書館所蔵)

領主あてに出された嘆願書の下書きのため、年代は記されていません。冒頭には、領主から下された通達が記され、以後これに反論する形で今町の主張が述べられています。田端町が魚の水揚げ価格を不当に安くしているため、漁師の暮らしが立ち行かないこと/今町の漁師が水揚げした魚及び領外から水揚げされた魚は税金(御役銀)を納めているのだから、在方では自由販売を認めてほしいことなどが記されています。

嘆願書(画像)

資料4「差上申一札之事」(福永家文書:高田図書館所蔵)

宝暦9年(1759年)に、四十物の販売にかかわり、糸魚川町の勘六が田端町と今町を江戸評定所に訴えましたが、翌年3月に評定所は裁定を下しました。この書付は、裁定に対して、勘六や福永十三郎らが不服のないことを記し、評定所に提出した請証文(うけしょうもん)です。

請証文(画像)

資料5「高田町奉行所触書」(福永家文書:高田図書館所蔵)

宝暦10年3月の江戸評定所の裁定では、四十物の販売をめぐる田端町と今町の申し争いについては、「同じ領内のことであるので領主(榊原家)の裁定を仰ぐこと」と指示しています。
これを受け、同年7月に高田町奉行所は通達を出し、今町が陣屋の改めを受け、税金を支払い、通行証(切手)を受領した四十物は、領内のどこでも自由に販売してよいと認めました。

触書(画像)

資料6「柏崎県庁の通達」(福永家文書:高田図書館所蔵)

廃藩置県により、榊原家の領地は、明治4年(1871年)7月14日に高田県、11月20日には柏崎県となりました。翌5年2月に、明治政府は、番所を設けて物品に口銭(こうせん)等を賦課することを禁ずる布告を発しました。同年5月に、直江津今町区長の福永弥平は、この布告の実施を求める懇願書を柏崎県庁に提出しています。
同年11月、弥平の働きかけを受ける形で、柏崎県庁は高田町・今町・筒石村・能生小泊村の戸長所(役場)に対し通達を出しました。通達には「高田問屋を廃止し、塩・生魚・四十物は、各地で収税を行った上で通行証を発給すること/通行証を発給された品物は、どこに出荷しても、どこで行商してもかまわないこと」が記されています。

柏崎県庁通達(画像)

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