明治時代の初期、上越地域では地主や下級士族が中心となって自由民権運動が繰り広げられました。
新潟県内はもちろん全国的にみても上越地域の自由民権運動は活発であり、明治13年(1880年)の集会条例施行後もその動きは衰えませんでした。
このような中、明治16年3月20日、官憲により「高田事件」と呼ばれる頸城自由党関係者の大量検挙が行われました。
頸城自由党員の小林福宗が、拘引中にメモした下書きや取調及び予審の記録をもとにまとめたものです。
自宅での拘引から保釈までの出来事が、断続的に綴られていますが、事件をねつ造した新潟軽罪裁判所高田支庁の検事補及びその密偵にかかわる新事実も記録されています。
高田事件では、頸城自由党員だけでなく、山際七司や加藤勝弥・清水中四郎など北辰自由党員も拘引されました。
釈放もしくは保釈されるまでに、最長で約6か月、大半が1、2か月を要していることが分かります。
高田事件で検挙された頸城自由党・北辰自由党関係者 [PDFファイル/155KB]
高田事件では、頸城自由党員などを拘引する際に、新潟軽罪裁判所高田支庁が発行した拘引状を提示しました。
この拘引状は、頸城自由党員の加藤貞盟に下付されたものですが、明治16年3月20日の午前5時40分に自宅で拘引されたことが分かります。
高田事件が発生してから11年後の明治27年3月に、高田町大工町(現仲町4丁目)の高原実信が編集・発行したもので、当時の自由党・改進党の有力者を番付表にしたものです。
高田事件の発生から約50年後の昭和4年(1929年)に、高田新聞は「高田国事犯事件の思ひ出」を連載しました。
高田事件で検挙された頸城自由党員の体験談が、生々しく掲載されています。
昭和47年1月15日発行の「広報じょうえつNo.9」の郷土・歴史散歩で、渡辺慶一氏は戦時中に行った高田事件最後の生存者・上田良平からの聞き取りを紹介しています。
上田の証言には記憶違いと思われる部分もあり、すべてを鵜呑みにすることはできませんが、信越線開通に高田事件の影響があったことが推測されます。