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資料から探る上越地域のサメ食の起源

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印刷用ページを表示する 掲載日:2017年12月29日更新

上越市をはじめとする上越地域は、サメとのかかわりが深い地域です。近年は、市内の各団体によって「サメの消費拡大を促す活動」や「サメを生かした地域起こし」が行われるようになってきました。今回の出前展示では、いつごろからどのような理由で、サメが上越地域の人々に食べられるようになったのか、具体的な資料に基づいて解き明かします。

説明資料 [PDFファイル/444KB]

資料1「越後名寄(なよせ)」(公文書センター所蔵)

寺泊で漢方医をしていた丸山元純(げんじゅん)が、宝暦6年(1756年)に著した越後の百科事典ともいうべき書籍で、本資料は、文化元年(1804年)に書き写されたものです。このうち、「海魚」の項にはサメとフカについて、詳細な記述があります。その後に書かれた「越後野志外集(やしがいしゅう)」や「越後頸城郡誌稿(ぐんしこう)」にも引用されています。

資料1(画像)

資料2「越後頸城郡誌稿(ぐんしこう) 物産一巻」(公文書センター所蔵)

越後頸城郡誌稿は全27巻で構成されており、旧高田藩士の庄田直道をはじめ16名によって執筆され、明治34年(1901年)に完成します。物産一巻は、庄田直道が執筆したもので明治22年8月に脱稿しています。同巻の「海魚 鮫」の項には、頸城郡においてフカザメが一般的に食べられるようになった時期が間接的に記されています。ちなみに後年、越後頸城郡誌稿は相馬御風(ぎょふう/文学者)と布施秀字治(ひではる/郷土史家)によって校正が加えられ、「訂正越後頸城郡誌稿」と名付けられました。

資料2(画像)

資料3「公儀御触書(おふれがき)」(「天保四年糸魚川町役所控(ひかえ)」:公文書センター所蔵)

俵物(たわらもの)の増産を目指していた幕府は、越後国の海浜の町村のアワビ・ナマコ・フカ漁の調査を実施する御触書を天保4年(1833年)3月に出しています。本資料は、糸魚川の町役所がこれを書き留めたものです。この御触書に関連して、同年夏、糸魚川町から出雲崎町の和泉屋弥兵衛へのフカヒレの売渡しの経緯についても記されています。

資料3(画像)

資料4「覚(おぼえ) 幕府普請方への回答」(福永家文書:高田図書館所蔵)

天保4年(1833年)9月29日(新暦11月10日)、幕府普請方元〆(もとじめ)高津八十之烝(やそのじょう)一行は、直江津今町の大肝煎(おおきもいり)福永七兵衛宅に直江津今町及び才浜(さいばま/黒井から鉢崎)の町・村役人を召集し、俵物三品にかかわる漁業の調査を実施しました。本資料は、その際に直江津今町が提出した回答書の控えです。直江津今町は、「アワビの義は一切これなく、フカの義も年柄により相揚がり候義もこれあり、生ナマコは近年二月頃磯引手繰網少々これあり候」と回答しています。

資料4(画像)

資料5「差出申御請書之事(さしだしもうすおうけしょのこと)」(小林瀬左衛門家文書:公文書センター所蔵)

幕府普請方元〆)高津八十之烝は、天保4年(1833年)に行った漁業調査の際、各町村から回答書を提出させただけでなく、これまでの漁の有無にかかわらずアワビ・ナマコ・フカ漁に励むこと、水揚げした三品はすべて幕府の請負人に売渡すことなどを厳命しました。本資料は、天保4年10月2日(新暦11月13日)に西浜(鳥ヶ首以西の旧西頸城郡)の榊原領の町村(名立小泊から梶屋敷まで)が普請方元〆)高津に提出した「請書(うけしょ)」(誓約書)の控えです。

資料5(画像)

資料6「年末の魚市場の様子を伝える新聞記事」(高田図書館所蔵)

「高田新聞」は明治16年(1883年)4月に、「高田日報」は明治41年11月に創刊されていますが、高田図書館にはいずれも明治40年以前のものは残されていません。明治42年12月26日発行の高田日報をはじめとして、両新聞は年の暮れの鮮魚の入荷状況や価格などをしばしば掲載しています。記事にはフカ・フカザメ・サメも登場し、明治時代中頃からは上越地域の年越しにサメがなくてはならない存在であったことが分かります。なお、新聞の劣化が進んでいるため、現物の新聞ではなく翻刻したものを展示しています。

新聞記事 [PDFファイル/316KB]

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〒943-8601 新潟県上越市木田1-1-3電話:025-526-5111Fax:025-526-6111

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