平成30年(2018年)は、大正7年(1918年)に発生した米騒動から数えて百年という節目の年に当ります。当時、日本は第一次世界大戦による特需の影響で好景気になりましたが、同時に物価高も進行していました。新米が出回る前の端境期には米が投機の対象となり、一層米価が高騰しました。このため、富山県内で発生した米騒動は、瞬く間に全国に拡大しました。幸い、上越地域では大きな事件や暴動には至りませんでしたが、人々の不満はくすぶり続けていました。米価の高騰に苦しむ人々の様子や行政機関の対応などについて、歴史公文書や当時発行された新聞などで紹介します。
大山家は、江戸時代に飯村の庄屋を務め、近代に入り稲荷中江普通利水組合が組織されると代々常設委員になりました。本資料には「中頸城郡稲荷中江普通利水組合之印」が押印されていることから、その職務の一環として作成されたものと思われます。作成目的は不明ですが、明治10年(1877年)から昭和12年(1937年)までの高田市場における1石の米価(毎年12月25日時点)が記されており、この間の米価の推移を把握することができます。
大正7年(1918年)8月16日に中頸城郡役所が郡内の町村に出した秘密文書です。この時点で、新潟県内では米騒動はまだ発生していませんが、全国各地に拡大する兆(きざ)しがありました。米騒動が発生した地域では、屋外に集まった人々が暴徒化する傾向があったことから、盆踊りを含む屋外での集合を禁止するように指示しています(高田市は含まない)。
大正7年(1918年)8月17日には新潟市と長岡市、同月19日には出雲崎町で軍隊の出動を伴う米騒動が発生しました。しかし、その後県内では騒動は発生していません。また、全国でも騒動は次第に沈静化していきました。この情勢を受けて9月9日に、中頸城郡役所は、8月16日付で通達した「屋外集合禁止」を解除する指示を出しました。
米騒動が激しさを増してきていた大正7年(1918年)8月14日、内務省は内帑金(ないどきん=天皇が手もとに所持する財貨)300万円の下賜を発表しました。8月11日には大阪市と神戸市、13日には東京市をはじめ21市で騒動が発生する状況となっていました。この情勢を受けて、寺内内閣が大正天皇に内帑金の下賜を願い出たともいわれています。高田市に配分された内帑金は2,277円でした。8月19日に第7回高田市会が開催され、生活困窮者7,590人を対象として、一人当たり30銭分の「天皇陛下恩賜米券」を配布することが議決されました。
大正7年(1918年)8月17日、直江津町と新井町では内地米の小売価格を引き下げるよう町民から強い要望が出されました。直江津町は篤志家の寄付を募り、新井町は町当局と米穀商が値下げ分の費用を折半し、両町とも内地米1升を25銭で生活困窮者を対象に販売することを決定しました。これを受けて、高田市は同月20日に急施市会を開催し、市費を投入して1升につき5銭引きの「内外米割引券」を希望者に交付することが議決されました(高田市の生活困窮者は、既に1升につき5銭引きの「内外米補助券」を交付されていたため、「内外米割引券」の交付により1升35銭の内地米を直江津・新井両町と同様に25銭で購入することが可能になった)。
大正7年第8回高田市会議案第2号「議決書」
大正8年(1919年)発行の「大正6年高田市統計書」の付図「高田市街図」(公文書センター所蔵)、大正3年発行の「高陽餘影(こうようよえい)」(高田図書館所蔵)及び大正4年発行の「(御即位大典記念・第十三師団満洲駐剳(ちゅうとう)記念)新潟県発展写真号」(公文書センター所蔵)に収録された写真を用いて、高田市内の米騒動に関連する9つの施設を紹介します。
高田市役所
富山県内で発生した米騒動のうち、上越地域で最初に報道されたのは大正7年(1918年)8月3日に起きた西水橋町(富山市)の騒動です。この頃から、高田市にあった高田新聞及び高田日報は、各地の騒動の様子や米価の高騰ぶり、高田市や中頸城郡の町村・警察署の対応などを連日のように伝えています。上越地域では結果的に事件や暴動は生じていませんが、住民の襲撃におびえる米穀商の様子なども伝えています。
大正7年8月13日発行の高田新聞