人魚塚

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年11月26日更新

人魚塚と人魚(画像)

君と別れて松原行けば 松の露やら涙やら

 いつのころ、だれが作ったのか、その出所は不明ですが、海岸の松原は、天明の中期に、尾神(おかみ)村の檀那様と言われる藤野条助さんが、大変苦心して植林されたものです。
 ちょうど雁子浜の住吉(すみよし)神社が、まだ袴形(はかまがた)という所にあったころのお話で、小高い丘の松林に、明神様の境内があり、崖下には日本海の荒波が押し寄せ、遥か彼方には佐渡が島が夢のように浮かんでいます。鳥居の南側には常夜灯が並んで、雨の日も雪の夜も欠かしたことなく献灯されていました。
 そのころ、この常夜灯を目あてに、毎夜佐渡が島から通って来る不思議な女がありました。そして彼女は、夜明け近くになると、寂しく佐渡が島に帰るのでした。
 さて、雁子の若者は、気立ての優しい素直な男で、母親との二人暮らしでした。そして男には既にいいなずけがいて、互いに往復している仲でした。しかも母親は、一日も早く式を挙げさせて安心したい一心でした。ところが若者は、ふとしたことからこの佐渡の女と知り合い、毎夜、常夜灯を仲立ちにして、逢う瀬を楽しんでいたのでした。
 毎夜家を空けるので母親は若者に、
「お前はどんな用件があるのか知らないが、毎晩毎晩留守にするが、今晩一晩ぐらい家にいたっていいだろう。あの娘(いいなずけ)と、たまには話でもしたらどうだ。」
と、引き止めました。
 母親にしつこく止められた若者は、もともと気の弱い男なので、とうとう覚悟を決め、その晩は家にいて、常夜灯の明かりを休んでしまいました。
 その翌朝のことでした。明神様の崖下の磯端は大騒ぎで、漁師たちは漁どころではなく、みな右往左往していました。なぜならそこには、白蝋のような若い女の死体が転がっていたのです。そしてその姿は、丈なす黒髪はふり乱れ、恨めしそうな形相は、見る人をぞっとさせるほどでした。
 この話を聞いた若者は、足を宙に浮かして飛んで来て見れば、まさしくそれは佐渡の女でした。
「一晩約束を破ったばかりにこの始末、ああ、俺は何と罪深いことをしてしまったのだろうか。」
と、若者は深く後悔しました。
 しかし、後悔は先に立たず、この上は冥土でお詫びをしようと、ついに若者は、佐渡の女の後を追って、海へ身を投げたのでした。
 村の人たちはこの純情可憐な二人をかわいそうに思い、常夜灯の近くに二人を埋葬して、一基の比翼塚(ひよくづか)をつくり、地蔵尊像を安置して、菩提を弔ってやりました。
 明治四十一年(1908年)に、この明神様は崩山に移されましたが、だれが名付けたのでしょうか。いつしかこの比翼塚のことを人魚塚と呼ぶようになりました。
 そして、この地蔵様は今も草むらの中に一部残っているだけです。

(潟町 石井乙麿「遺稿集」より)                      


(出典:昭和63年5月30日発行 大潟町史)