米大舟

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年11月26日更新

米俵を満載した弁財船が潟町につく様子を表す画像 
潟町の浜浦に米俵を満載した弁財船が着く

亀田伊兵衛の墓の画像
亀田伊兵衛の墓

 寛文12年(1672年)、河村瑞軒によって、出羽(山形県)の酒田港を基点として、日本海における西航路が発足しました。これによって沿岸諸国の交通が発達したため、御廻米とか諸産物の運搬が、かなり順調に行われるようになりました。
 それから約45年後の、8代将軍吉宗公の享保年代の初期は、来る日も来る日も旱魃と長雨のため、上越地方は凶作となりました。そのため、農民の生活はどん底に落ち、一家離散などの悲劇が至る所に続出しました。特に潟町地方の悲惨な姿は、目も当てられないほどでした。
 そこで、潟町の御蔵組中17か村が、川浦代官所に、
「この苦しみを是非救ってください。」
とお願いしましたが、全然顧みられませんでした。
 当時は潟町をはじめ犀浜中は、川浦代官所の支配を受ける幕府直轄の領地でしたから、高田の殿様とは無関係でした。したがって、天領の民衆を高田の殿様が救うはずはありません。それどころか、当時高田の殿様であった松平越中守定輝は、いろいろな土地問題で、そんな余裕はありませんでした。
 そうこうしているうちに潟町の田んぼは、昔の大潟そのままの湖となってしまい、稲穂の顔も見ることさえできない状態になってしまいました。
 そこで、潟町村外26か村が連名で、川浦代官所の小宮山長左衛門並びに柴山藤兵衛の両代官(この2人は1年足らずで転職となりました)を再び訪れて、農民を救ってくださるようお願いしましたが、結局了解を得ることができませんでした。そのため、農民衆の苦しみは、年とともにますます深刻になるばかりでした。
 その時、潟町の庄屋八木十右衛門さん(現在の八木自転車店の先祖)は意を決して、数度にわたって代官所へ救助をお願いしましたが、「遺憾だ」「駄目だ」の1点張りで、もうすがる綱もなくなってしまいました。
 ところが不思議にも「捨てる神あれば、助ける神もある」ということわざがあるように、この時、潟町のこの苦しみを救うために手を差し伸べた義人があったのです。その人は弁財船の頭目亀田伊兵衛その人でした。
 伊兵衛は奥州山形の人で、米俵を満載した船を今町(今の直江津)から、大阪に向かって出港という間際でした。ちょうどその時通りかかった潟町の庄屋八木さんを乗せた伝馬船の船頭衆と、この伊兵衛の船がぱったりと出会いました。
 伝馬船の船頭衆が、
「やー親方、今お立ちですか。」
と挨拶をし、続いて庄屋の八木さんを紹介しました。そこで八木さんは、凶作で、犀浜中特に潟町が一番困っていることをるる述べました。すると伊兵衛は非常に同情しました。伊兵衛はその時、何か心に決するところがあったのでしょうか、
「今は廻送の任務中なので、いずれ国へ帰ってから考慮しましょう。」
と言い残して出港していきました。
 さて、その後数日を経てある日、潟町の浜浦に米俵を満載した弁財船がにぎやかに横付けになりました。さあ大変です。庄屋の八木さんをはじめ、村の重立はもちろんのこと、伝馬船の船頭衆も狂喜して迎えたのでした。
 弁財船の頭目伊兵衛は、先般の約束を実行し、潟町の人々の苦しみを少しでも救ってやろうと、郷土酒田の人たちの義侠心に訴え、義米を募り、船に積み込んで運んで来てくれたのでした。
 米俵の有難みはいうまでもなく、この義侠心に感激した潟町衆の気持ちは、全くたとえようはなく、涙を流して喜び合いました。
 そこで早速村役人衆が集まって相談をし、感謝とお礼の気持ちを込めて酒宴を開きました。
 その酒宴の席のことでした。主賓の伊兵衛はころ合いを見計らい、つと立って床の間に置いてあった「ビンダライ」を左手に持ち、右手を上下に振り回しながら「酒田高野の浜 米ならよかろう」と、音吐朗々と歌いながら踊り始めました。
 その動作は、いかにも優美であり、典雅であり、調和が実によくとれているので、満座の人たちはただ恍惚と眺めるだけでした。やがてそのうち、もう我慢ができず、全員総立ちとなって、ともに伊兵衛に和して踊りました。
 潟町において弁財船の米大船踊が初めて踊られたのは実にこの時です。要するに、これが米大舟の走りだったのです。
 その後1度、伊兵衛は帰国しました。けれどもよほど潟町の人情が気に入ったのでしょうか、潟町に永住することを申し込み、ついに妻子を連れて来て、小山孫右衛門さん宅の裏手に1戸を構えました。そして春秋の神明宮のお祭りには必ず陣頭に立って、青年衆にこの踊を指導しました。
 それから後のことですが、伊兵衛は大病にかかり、寛延3年(1750年)の6月2日、ついに帰らぬ人となりました。柿崎の善導寺住職さんによって葬儀が営まれ、潟町の花光庵(現在庵はありません)の墓地の南隅の2番目に手厚く葬られました。
(この伊兵衛の墓は、昭和27年8月、潟町の石井乙麿さんによって発見されました。)
 伊兵衛には3人の子供がおりました。上の子も中の子も共に早死しましたが、末子弥五衛門は文政3年(1820年)に亡くなっております。伊兵衛は念仏の信者とみえて、生前花光庵に立派な半鐘を寄進しましたが、その半鐘は後に戦争のために供出されてしまいました。
 小山家では、この亀田一家のために、盆暮れには毎年必ず墓地を清掃し、お花を上げ菩提を弔ってこられました。
 昭和37年7月3日、潟町の米大舟保存会では、永く伊兵衛の遺徳を偲ぶため、潟町公民館の前に彰徳碑を建設しました。またお墓は、昭和47年、潟町米大舟保存会により、花光庵から潟町の西念寺の墓地に移し変えられ、立派に建て替えられました。
(潟町 石井乙麿「遺稿集」より)


(出典:昭和63年5月30日発行 大潟町史)