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大潟区の文化・伝統・伝説

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年9月12日更新

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上越市で指定されている文化財を一覧にしました。

木造千手観音坐像

瑞天寺の千手観音像の写真

彫刻 上越市大潟区蜘ヶ池 瑞天寺所蔵
高さ 1m57cm
ヒノキ材、寄木造り、漆箔、彫眼

 神亀3年(726年) 聖武天皇の命により諸国を巡教した、行基菩薩が一刀三礼自ら彫刻されたと伝えられる。その頃、大潟耕地は大沼で付近一帯には葦が茂り、民家もなくただ小堂が裏山(観音山)に建てられていた。その山がちょうど島のように見えたところから、島の観音と呼ばれたと言われている。
 その後、刈羽郡南荘の領主毛利経光により、頚城郡猿供養寺山寺本山の付属として真言宗の一寺を創立して観音像を安置された。応仁元年諸国が乱れ、文明元年になって当地方も戦乱に巻き込まれ、この寺院も焼失したが、観音像だけは消失をまぬがれ、寛永10年(1633年)高田藩主松平光長が高田嬢の鬼門除けのため、(古くからあった観音堂を)再興して曹洞宗の一寺を建てて蜘池山瑞天寺とし、寺領12石9斗5升を寄進した。
 寛永14年(1637年) 光長の命により神戸三郎左衛門・茂田七右衛門・宮嶋作右衛門の三氏が、大瀁新田(頚城村)開発にあたったが、沼の水が引かず困難を極め、この観音に祈願しながら開発をすすめ、延宝6年、34年間の開発が成功した。
 このため、光長より加領を受け、永く頚城地方一帯から信仰された。
 その後、享保7年(1722年)、江戸深川で修繕され、昭和31年文部省西川技官から鑑定をうける。大潟町では最も古い仏像。


(上越市文化財指定台帳から抜粋)

木造不動明王立像 木造毘沙門天立像

木造不動明王立像

瑞天寺の不動明王像の写真

彫刻 上越市大潟区蜘ヶ池 瑞天寺
高さ 2m27cm
木彫寄木造り

木造毘沙門天立像

瑞天寺の毘沙門天像の写真

彫刻 上越市大潟区蜘ヶ池 瑞天寺
高さ 2m27cm
木彫寄木造り

 大同3年(808年)弘法大師が諸国巡教されたとき、当時裏山(観音山)に建てられていた島の観音(千手観音像)を礼拝され、その観音像に深い感銘を受けられて、不動明王像と毘沙門天像の2体を彫刻され、千手観音像の脇立ちにされたと伝えられる。
 その後、補修を繰り返したが、昭和54年(1979年)改めて補修された。


(上越市文化財指定台帳から抜粋)

木造聖観音坐像

瑞天寺の聖観音像の写真

彫刻 上越市大潟区蜘ヶ池 瑞天寺
高さ 1m51cm
木彫寄木造り、乾漆像、坐像

 神亀3年(726年)吉川町西野島で、行基菩薩が彫刻されたものと伝えられている。 その後、数百年西野島に安置されていたが、建久・承元の頃(1190年~1210年頃)しばしば安置場所が変わり、再び西野島に安置されたが、戦国時代、廃寺になり、堂舎が破壊されて、露地に安置されたこともあるといわれる。
 永正5年(1508年) 蜘ヶ池に安置され、文化11年(1814年)、瑞天寺住職により、現在の本堂を改建安置された。享保7年 (1722年)江戸深川で修繕され、その後昭和55年(1980年)補修された。


(上越市文化財指定台帳から抜粋)

木造不動明王立像 木造毘沙門天立像

木造不動明王立像
円蔵寺の不動明王像の写真
彫刻 上越市大潟区犀潟 円蔵寺
大きさ 91×39×27cm

木造毘沙門天立像
円蔵寺の毘沙門天像の写真
彫刻 上越市大潟区犀潟 円蔵寺
大きさ 95×39×22cm

木喰上人は、俗姓を伊藤といい、享保3年山梨県に生まれ、22歳で仏門に帰依し、その後45歳で木喰戒(火食を絶ち、五穀をさける)を受け、92歳でこの世を去るまで、5度の日本回国を行いました。
 この仏像は、上越市吉川区神田町の無量庵が昭和初年廃堂に際し、上寺の円蔵寺所蔵になったと言われている。上人は、昼、寺に集まる人々の病気や苦悩の相談相手となり、夜は黙々とナタをふるい、一夜に最高3体を刻んだと言われる。
 現在、全国で確認されている木喰仏像は350体程で、上人の仏像は「地の仏」といわれ、民衆救済の仏といわれている。特にこの仏像は、上人の完成期の仏像として造形美にすぐれる。


(上越市文化財指定台帳から抜粋)

どぶね

有形民具のどぶねの写真

有形民具 土底浜 上越市所蔵 昭和32年

土底浜の柳沢喜代作から2艘が、大潟町に寄贈された。この「ドブネ」は代々網元であった柳沢家で20年から30年前まで地引網漁業に使用されていたものである。
 「ドブネ」の形式、構造は地域によって相違がある。中頚城郡海岸、いわゆる犀浜では、「サイハマドブネ」と呼び、直江津以西、西頚城地域のものは「ニシハマドブネ」と呼んでいる。
 「サイハマドブネ」は製作に船釘を使用せず接合部はいっさい「タタラ」および「チキリ」と称する接合片をさし込み、漆を流して接合する。
 一般に船の重量が軽量であって、季節風のつのる冬季間など数人によって陸上に運搬することができること、比較的寿命が長いこと、舟足が早いことなどが特徴とされている。
 操法はもっぱら櫂によるもので、主として地引網漁業に用いられた。土地の生活に結びついた漁船である。
 一艘は昭和30年ころ、糸魚川の舟大工水越猪之松、もう一艘は大正7年ころ九戸浜の舟大工佐藤亀作によってつくられた。
 上越市の水族館に展示されているどぶねは、明治34年(1,901年)に同人が作られたたもので、現在、国指定重要有形民俗文化財及び県文化財に指定されている。 大潟町に保管されている「どぶね」は、永越氏最後の作品。(昭和34年7月死去)


(参考文献:昭和63年5月30日発行 大潟町史)

観音山33ケ所石仏群

33カ所石仏群その133カ所石仏群その233カ所石仏群その3
33カ所石仏群その433カ所石仏群その533カ所石仏群その633カ所石仏群その733カ所石仏群その8
33カ所石仏群その933カ所石仏群その1033カ所石仏群その1133カ所石仏群その1233カ所石仏群その13
33カ所石仏群その1433カ所石仏群その1533カ所石仏群その1633カ所石仏群その1733カ所石仏群その18
33カ所石仏群その1933カ所石仏群その2033カ所石仏群その2133カ所石仏群その2233カ所石仏群その23
33カ所石仏群その2433カ所石仏群その2533カ所石仏群その2633カ所石仏群その2733カ所石仏群その28
33カ所石仏群その2933カ所石仏群その3033カ所石仏群その3133カ所石仏群その3233カ所石仏群その33

史跡 上越市大潟区蜘ヶ池 瑞天寺

 九戸浜の小林廻船業では、観世音菩薩を信仰していた。
 この石仏群は、海上安全の祈願のため、小林六右衛門氏が佐渡で西国三十三ヶ所の観世音石像を刻んでもらい、蜘ヶ池の観音山へ建立、寄進したもの。 建立にあたって、西国三十三ヶ所の観音堂の土を収め、各霊場を踏むと同じ功徳があるといわれている。


(上越市文化財指定台帳から抜粋)

瑞天寺のイチョウ

瑞天寺のイチョウの写真

天然記念物 上越市大潟区蜘ヶ池 瑞天寺
樹齢 推定400年

 目通り3m80cm瑞天寺境内の山門の路傍に生育しているイチョウは、樹齢400年と推定され、大潟町の古樹といわれている。樹高23m60cm、目通り幹囲3m80cm、根回り5m40cm、枝張りは東西25m30cm、南北に25m80cmで、全体的に高さが低いわりに枝張りが広がっています。
 乳柱は少なく雌株で、毎年たくさんの銀杏(種子)をつける。


(上越市文化財指定台帳から抜粋)

八社五社

芸能である八社五社の様子

芸能 八社五社保存会

 「八社五社」は、頚城十三社の別称。式内社のことをいい、延喜8年(908年)醍醐天皇の命によって編集された「延喜神名帳」(延喜式)に記載されている神社のこと。
 当地方では、関川(荒川)の川西に八社、川東に五社がある。 八社五社の踊りは、この十三社の社殿建立のときの労作歌「地固め歌」として歌いだされたと伝えられている。


(上越市文化財指定台帳から抜粋)

米大舟

芸能である米大舟の様子

芸能 大潟米大舟保存会

 米大舟は、犀浜の一部で唄い継がれている民謡です。大潟区の潟町・土底浜、上越市の夷浜・黒井に残る盆踊り唄です。
 今から275年位前の享保年間(1716~1735年)の初期、毎年干ばつと長雨で上越地方は凶作が続き、とりわけ犀浜地方の被害はひどく、飢饉に苦しんでいました。 そんなある日、救援米を積んだ大船がこの海岸にイカリをおろしました。船は、酒田港から廻米を積んで江戸へ行く途中、直江津港に寄ったときに、当地方の窮状を聞いて深く同情し、救援してくれたのです。
 喜んだ人々はその夜、船頭の亀田伊兵衛や船乗り衆を招いて、さっそく謝恩の酒宴を開きました。その時、伊兵衛が即興に唄い踊ったのが米大舟であったと言われています。 この舟は弁財船といい、船乗り達は弁財衆と呼ばれていました。弁財衆の踊りが「ベンザイショー」、「米を積んだ船」から「ベエダイショー」となり、昭和3年「米大舟」になったと言われ、それ以後地域の人々によって歌い継がれています。


(上越市文化財指定台帳から抜粋)

 現在、米大舟の保存会は、大潟米大舟保存会 潟町支部と土底浜支部の2団体が活動している。