高田築城

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年1月27日更新

 慶長15年(1610年)2月、福島城主となった松平忠輝(まつだいら ただてる)は、まもなく国役普請(幕府の命による工事)として高田菩堤ヶ原に高田城を築きました。築城の理由は、加賀の前田家、出羽の上杉家に対抗するためであり、また諸大名に天下普請を命じることにより、経済的圧迫を加えようとしたこと、さらに佐渡金山の支配を強化するためなどが考えられます。
 慶長19年(1614年)3月、本格的な工事が始まり、仙台城主 伊達政宗、米沢城主 上杉景勝、松本城主 小笠原秀政、谷村城(山梨県都留市)主 鳥居成次をはじめとする13大名が、家康の命令で工事に参加。うち、小笠原と鳥居が譜代大名であるほかはすべて、外様大名で、特に忠輝の舅(しゅうと)の伊達政宗は、普請総裁として自ら陣頭指揮をとりました。
 政宗は7月に、8月に各藩の役人や人夫も相次いで引き上げ、このころ城郭がほぼ完成したと見られます。このようにして忠輝は福島城を廃し、竣工わずか約4か月後に新築なった高田城に入りました。
 築城計画によると、天守台を石垣とし、それ以外はすべて土塁とすることに決まっていましたが、実際には石垣を構築せず、天守閣も造りませんでした。その理由は、大坂冬の陣(1614年)の直前で工事を急がせたことと、石材が付近になく集める余裕がなかったことなどであったと思われます。天守閣に代わって、本丸南西隅の櫓が高田城のシンボル的な存在でした。