企業の経営者が、会社や事業を後継者に引き継ぐ「事業承継」の目的は、会社の発展と自社の雇用を守ることであり、ひいては地域の未来を守ることにもつながります。
本号では、事業承継の3つのパターンを取り上げ、引き継ぐ側、引き受ける側、それぞれの声を聞いてみました。
写真左:代表取締役会長の荒木一(いち)さん、写真右:代表取締役社長の荒木克(まさる)さん
大島区嶺(みね)地内の復旧治山工事現場で撮影
市内の旧東頸城地域(浦川原区、安塚区、大島区、牧区)を拠点とし、地すべり砂防工事、道路舗装工事、上下水道工事、冬季道路除雪などを手掛ける。
施工した細入地区(浦川原区谷地内)の災害関連緊急地すべり対策(治水)工事。
昨年大島区田麦で開催された「ブナフェス」では、子どもたちが建設業に触れる機会を提供。地域との関わりを大切にしている。
荒木会長 私が35歳で父から会社を引き継いだときから、私もこの子に引き継いでいこうと自然に思っていました。継がせるなら息子が若いうちにと思い、私が65歳、息子が38歳のときに承継しました。
荒木社長 幼い頃から先々代である祖父に「お前が継ぐんだぞ」と言われて育ってきたので、会社を継ぐのが自分の定めと思っていた部分はあります。また、社員の皆さんに可愛がってもらっていたため会社への抵抗感はあまりなく、地域では「大陽さんところの息子」と言われてきたこともあって、自然と自分が継ぐものという意識がありました。
今振り返ると、上手にレールに乗せられた感があり、もう少し考えてみれば良かったなという若干の後悔もありますが(笑)、自分が決めたことなのでしょうがない、といった感じですね。
荒木会長 私が亡くなってからの承継は当然のことながら、病気になってからの承継にも難しさがあると思いますので、まだ現役のうちに承継できたことは良かったと思います。物事の考え方は私と息子とでは全然違うなと感じていますが、方針が極端にずれてしまわない限り、なるべく口出しをしないようにしています。それでも、いざ問題が起きたときには、支えることができるかなと思います。
荒木社長 まだ元気過ぎて喧嘩をすることもありますが、困ったときにいてくれるのは心強いですね。
親子の間で承継する場合、親から子への適度な押し付けは必要かなと思います。知り合いの中には、事業を継ぐことについて何も言われてこなかったという人も結構いますが、親から早い段階で「ちょっと頼むわ」という一言があると、むげにもできないですし、心構えもできるのではないかと思いますね。
荒木社長 最近は、就職活動のオンライン化が進んだり、若い人の就職先選びにやりがいが重視されるようになったりしてきています。そうした時代の変化にも対応しながら、今後も地域に根ざし、暮らしを守っていけるように、そして、地域に必要とされる会社で有り続けられるように、事業や地域活動に取り組んでいきたいと思います。
写真左:代表取締役社長の米桝(こめます)弘さん、写真右:取締役会長の南雲信介(しんすけ)さん
精密金型の設計製作・部品加工、特殊精密プレス加工などを行う。自動車向けの精密金型によって作られる重要部品の3点は、世界シェアトップクラスを誇る。
南雲会長 私自身、父から会社を継ぐ際にとても苦労をしましたから、40代後半の頃には、自分のときは会社にとってベストの状態、タイミングで承継しなくては、と考えていました。
社長職はとても神経を使うので、いつまでもできるものではありません。
自分が元気なうちは、新社長がトラブルに巻き込まれても助けることもできるだろうと考え、60歳のときには承継をと定め、逆算して準備を進めました。
南雲会長 私には息子がいますが、会社を任せるにはまだ若く、継いだとしても、至らないところをフォローするために私が口を出していたのでは、意味がありません。そういう意味で、次の社長を任せられるのは米桝さんしかいないと早い段階から考え、社長になるために経験してもらうべきことを洗い出して、総務、外部調達、製造と経験を積んでもらいました。
米桝社長 私は、自分が社長になるなんて考えたこともありませんでした。取締役になって1年くらいの頃に「中期役員体制」という資料を見せられ、私の名前が社長のところに載っていたんです。「こうなるからね」と。
南雲会長 中小企業の社長のほとんどは、企業が金融機関から融資を受けるときに、本人や家族を含め個人で返済を保証する「経営者保証」 をしています。社員に会社を任せたいと思っても、そこまではお願いできません。ですから、経営者保証をしなくてもいいように、会社の指標をクリアするために業績を上げたり、財務体質を改善したりという努力を積み重ねてきました。その面でも、承継には時間が掛かりました。
米桝社長 社内の体制も含めて、私が仕事をしやすい環境を整えてもらえたと思っています。助言が欲しいときは意見をお聞きしますが、何かをしろと言われたことは一度もありません。いつも「あなたの思うとおりにやればいいよ」と。それは恵まれていますね。
南雲会長 あるときに社長という役割を担う人が現れ、その役割を果たして、そしてしかるべきタイミングでその時代に最も適する能力のある人が後を継いでいく。それが会社にとっても、従業員にとってもベストではないかと思いますし、私たちもそのように進めてきて良かったと思っています。
写真左:代表取締役社長の荻原潔(きよし)さん、写真右:総務部長で株式会社エッジシステムズ代表取締役社長の吉川康一(こういち)さん
主に農業機械、建設機械、除雪道具を製造販売。平成29年12月に吉鉄製作所からスノーダンプの製造を引き継ぎ、平成31年3月には子会社「株式会社エッジシステムズ」を設立し、打江製作所からスキー用エッジの製造を引き継ぐ。
荻原社長 打江製作所さんとは同業者で、スキー・スノーボードのエッジ製造は面白そうな仕事だなと思っていました。弊社から銀行を通じて事業譲渡の打診をしたのが最初ですが、そのときは話は進まず、何年か後に今度は銀行から「オギハラさんいかがですか」という話をいただいたのが直接のきっかけとなって事業を引き継ぎ、子会社として「エッジシステムズ」を立ち上げました。
決め手になったのは、譲り受けることが弊社にとって相乗効果を生むかどうか、提示金額が妥当かどうかということでした。
吉川社長 エッジ製造を譲り受けることで、プレス加工などそれまで外注していたものを自社で製作できるメリットもありました。決断する上で重要なのは、そういう経営的なところでした。
荻原社長 上越は日本スキー発祥のまちで、エッジ製造については日本で唯一ということが語られますけれども、事業環境は非常に厳しく、収益を上げることが難しい事業です。
吉川社長 日本のスキー・スノーボードメーカーが求める基準をクリアするためには、弊社のエッジが不可欠です。メーカー自身がその技術を持つことは難しいので、弊社の事業が生き残ることができています。
荻原社長 「吉鉄のスノーダンプ」の吉鉄製作所さんとは、私の父の時代から濃い取引がありました。社長さんは、ご両親が亡くなられてからはほとんどお一人で作っておられて。忙しい時期には弊社でもお手伝いをしていましたが、「自分は辞めるから、やらないか」とお話をいただきました。地域で認知され、ブランド化されていましたので、事業としてやっていけると思い、決めました。
吉川社長 エッジには協力いただける取引先のメーカーがあって、スノーダンプには求めるお客様がいました。そういう人たちがいる限り、これはいける、という手応えはありました。
荻原社長 事業譲渡の仲介を専業にしているコンサルに話を聞くと、利益が出て事業がうまくいっているところであれば、後継者がおらず、「年だからやめたい」となっても、買い手はあまたで、スムーズに譲渡できるということです。事業譲渡、承継には経営改善や収益向上の努力の積み重ねが大事だと思います。
寛永元年(1624年)より約400年、粟飴・翁飴・笹飴などを製造販売する日本で最も歴史の長い飴屋。
写真左:代表取締役の橋孫左衛門さん、写真右:娘の園子さん
孫左衛門さん 当店は、約400年続く店の歴史と伝統を守るため、代表は代々「孫左衛門」を名乗っています。
私は父が亡くなるまで一緒に仕事をしていましたので、代替わりに際して商品の製造や経営の面ではあまり苦労はありませんでしたが、対外的な付き合いや店の歴史に関することなど知らなかったことも多く、「生前に父からもっと話を聞いておけばよかった」と思うこともありました。
園子さん 私が20代の頃、店を継ぐ人が誰もいないというときに、子どもの頃から親しんでいる唯一無二の飴菓子を後世に残したい、そしてそれは自分にしかできないと考え、東京の会社を辞めて帰ってきました。今は経験豊かな父と一緒に仕事をしながら、少しでも疑問に感じたことはそのままにせず、尋ねるようにしています。
昔から支えて下さっているお客様に加え、当店の飴菓子を好んで下さる若いお客様も大切にし、商品を広く知ってもらえるよう、時代に合った新しいスタイルも取り入れていきたいですね。そうして飴菓子を後世に伝えられたらと思います。
江戸時代後期の文化文政時代に創業し、約200年味噌の製造販売を行う老舗の味噌蔵。
写真左:代表取締役の杉田文子さん、写真右:専務取締役で娘の貴子さん
貴子さん 自宅と店舗が一体で、小さな頃から両親が働く姿や、店を支えて下さるお客様とのやりとりを間近に見て育ちましたので、いずれは店を継がなければ、と思うようになりました。
20年ほど前にベテランの社員さんが亡くなり、店が回らなくなったという連絡を受け、金融機関での勤めを辞め、東京から戻ってきました。
文子さん 娘が戻って1年半ほどで先代が急逝し、娘が一人前になるまでは、と私が後を継ぎました。近年は、味噌を使ったスイーツの開発など、娘の新しい感覚を取り入れながら事業を行っています。
貴子さん 良いものを作り続けていれば、お客様は支えて下さると思っています。そのために、品質の維持とブランド力の向上に日々取り組んでいます。技術の継承という点では、味噌の製造は職人の勘と体力勝負なのですが、これからの時代は女性や体力の無い人でも製造に携われるよう、設備の更新なども行っていきたいですね。
文子さん 普段は忙しく、こういう話はあまりしませんが、先のこともいろいろと考えてくれているので、安心だなと思います。
市では令和元年に、市内の10,130事業所のうち、事業規模や業種の比率に応じて2,000事業所を抽出し、調査を行いました。
事業承継を検討している事業所:44.2%
事業承継を検討していない事業所:55.8%
上越市では後継者が決まっていない事業所が多く、事業承継の準備を始める時期も遅い傾向にあり、希望しても事業継承を実現できないケースがあります。
電話:025-526-5111
事業承継を行うには、十分な準備と時間が必要です。何から手をつければ良いか分からない場合など、気軽にご相談ください。「事業承継2 社員への承継」で触れられた「経営者保証」の解除に向けた支援も行っています。
(新潟市中央区万代島5-1) 電話:025-246-0080
電話相談のほか、市内で毎月20日前後に出張個別相談会を実施しています。詳しくはホームページをご覧いただくか、産業政策課(電話:025–526–5111)へ問い合わせてください。
新潟県事業承継・引継ぎ支援センターホームページ(外部リンク)<外部リンク>
制度の詳細や他の支援制度については、移住支援制度(自治・地域振興課)をご覧いただくか、自治・地域振興課(電話:025–526–5111)へ問い合わせてください。
上越市出身の石浦選手が日本代表の競泳選手として内定しました
石浦 智美(いしうらともみ)選手(所属:伊藤忠丸紅鉄鋼株式会社)
(石浦選手コメント) 専門種目である50m自由形で金メダル獲得と世界新記録を目指しています。ぜひこの機会にオリンピック・パラリンピックを上越でも身近に感じていただき、皆さんに明るいニュースを届けられたらと思います。
上越市では、ドイツのホストタウンとしてパラリンピック柔道チームの合宿を3度受け入れ、子どもたちをはじめ、多くの市民の皆さんと交流を深めてきました。当市での合宿に参加した3人の選手がパラリンピックに出場します。(令和3年7月1日現在)
各地の「聖火フェスティバル」で採火された全都道府県の火を集め、パラリンピック開会式までの4日間、都内で聖火リレーが実施されます。
当市でも「上越市の火」を採火して送り出す「聖火フェスティバル」を開催します。
取組 | 日程 | 会場 |
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採火 | 8月12日(木曜日) | 日本スキー発祥記念館前 |
GROW UP ACTION 上越市の火を育てよう | 8月12日(木曜日)~14日(土曜日) | 市役所木田庁舎、各総合事務所ほか |
「上越市の火」誕生セレモニー | 8月15日(日曜日) | オーレンプラザ |
「上越市の火」展示 | 8月15日(日曜日)~16日(月曜日) | 謙信公武道館 |
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