保阪家は県内屈指の大地主で、ルーツは現三和区大東に行きつく。慶長年間の「太閤検地」検地帳にその名があり、約四百数十年前(永禄期~天正期) に祖が在住と推定される。
初代徳右衛門がここ戸野目に移住してきた後の土地保有高は644町歩、天保末期には入立米(小作取分を除き地主に渡す米)が12,000石だった。代を重ね、弘化4年(1847年)の大地震や水害、天候不順による凶作続きで高田榊原藩が財政窮乏の折、大肝煎として多額の冥加金等を拠出、このほか領民に救米や金子を支給すること30回に及んだ。
8代当主貞吉が植えた城外堀のハスが東洋一にふさわしい異彩美を放つのも、適種栽培に苦闘した人々の労苦が霊峰妙高を抱き、一滴の雫に映えるからである。
戦後の農地解放による土地制度の変革は、資産のみかこの邸宅の歴史的文化的価値をも奪ったが、残存する建物は往時の原型を偲ぶ余韻を残す。幸い9代当主潤治が収集した資料・コレクションから地方自治や近世歴史を繋ぎ合せ、旧津有郷の人々はじめ、広く史実を公益に供せることは未来への礎となる。