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郵便の父 前島密

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印刷用ページを表示する 掲載日:2023年9月1日更新
記念館所在地:下池部
前島密の写真 

「郵便の父」と言われる前島密は、江戸時代も終わろうとしていた、天保6年(1835年) 田園風景の広がる頸城郡津有村(現在の上越市下池部)の大農家上野助右衛門の二男「房五郎」として生を受けた。母は高田藩士伊藤源之丞(食碌三百石)の妹で、貞子(ていこ)という。

 生後八か月で父を亡くし、母一人の手で育てられ、母の裁縫などで貧しい生活をしておりましたが、八歳の時、母と共に叔父で糸魚川藩の医師・相沢文仲の元に移住し、三年間を過ごすことになります。この時期に少年房五郎を取り巻く人達の人間関係の温かさ、知識の深さが、将来彼の人間形成に大きな影響を与えたと思われます。

 人のために働く医師である叔父の背中を見て育ち、世のため役に立つ医師を目指し、母に江戸での勉学を訴えます。母は「男子は一旦志を立てたら、前へ進むのみです」と励まし、江戸へ送り出しました。

 十二歳の少年の江戸での生活は厳しく、食事、勉学のすべてを自らの行動で切り開いて行きました。嘉永六年(1853年)、米国艦隊の浦賀来航を見て、国家存亡の危機を痛感し、医師への志を、国を守る事に転向しました。そして、函館から九州まで自分の足で歩き、函館丸で日本を二周するなどの体験をもとに、漢学はもとより、蘭語、英語、数学、機関学や測量術、銃砲、用兵学など、広い分野の学問や知識の取得に努力を重ねました。

 慶応二年(1866年) 幕臣・前島家の養子となって「前島密」を名乗り、静岡に移住した徳川家のために一生懸命に働きました。

 明治三年(1870年)明治政府に入った密は、文明国になるには先ず、「通信と交通の近代化」が必要だと考え、「通信は郵便」、「交通は鉄道」という具体案をもとに、その事業の創業、実現に行動を起こします。「前島の実証主義」と言われる所以です。

 後に「郵便の父」と言われる前鳥密の業績は、近代郵便の制度を創設した事に止まりません。新しい国家にふさわしい都として、江戸の地が最適だと、六項目にわたる「江戸遷都論」を大久保利通に送り、慶応四年七月、「首都・東京」が誕生し、九月には「明治」と改元されました。また、徳川慶喜に漢字の廃止を建言したのをはじめ、明治政府の中では、文部省から「国語調査委員長」として現在の国語制度の基礎となる「話すこと」と「書くこと」は同じという、「言文一致」の方向をまとめたりしました。

 さらに、まだ鉄道がなかった時代に鉄道敷設の計画案を立て、これを基にして新橋、横浜間に我が国初めての鉄道が開業しました。また、従来の飛脚人の仲間を纏めて「日本通運」の前身となる運送会社を創設したり、外国航路の開設を民間事業として成功させるなど、事業の企画プランナーとしても、実に大きな足跡を残しています。

 新潟県内では、新潟と直江津を結ぶ鉄道の建設にも着手し、創立委員長や、北越鉄道の初代社長として、国有鉄道の発足まで努力しました。その先見性と実行力は、彼が日本を近代化へと導いた、偉大な一人であることを伝えています。

 明治三十五年(1902年) その様々な功績により、宮内省より通達があり、「男爵」を授けられ、華族に列するに至り、大正四年(1915年) には、密翁の寿像(生前に作る銅像)が建設されました。

 晩年の密翁は、東京小石川の本邸で、奈河(なか)夫人と共に、三味線、尺八などを楽しんで過ごしておりましたが、奈河夫人が六十九歳で死去した、二年後大正八年(1919年) 四月二十七日、横須賀で、八十四歳の生涯を閉じました。

 現在、前島密の生家跡には、すべて寄付に基づく「前島記念館」が建てられ、「生誕記念碑」や、「銅像」のほか、遺品や遺墨、業績絵画、郵便の歴史的な資料、郵政事業の現状などの様々な資料が展示されております。

前島記念館の写真前島密翁生家の屋敷跡の説明文の写真

「津有の郷 文化遺産めぐり」(平成26年津有地区地域づくり協議会発行)から抜粋して掲載しています。

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