明治5年(1872年) 新政府から新学制が発布されると、翌6年10月戸野目保阪貞吉氏の尽力により、戸野目蓮休寺を仮校舎として戸野目小学校が開校し、さらに7年7月四ケ所に新校舎が竣工して「四ケ所小学校」となった。
しかしこの学制は義務制ではなく、全国的には名ばかりの学校も多かった様である。そこで明治13年、教育の義務を明言した教育令が出され、この義務教育令を受けて、四辻五ケ字は川浦小学校へ入学となった。
17年7月の「戸長役場所轄区の改正」で、四辻五ケ字は川浦組に組入れとなり、22年3月の「町村制実施」において、現在の区(津有)に組入れとなった。そのため、22年の町村制実施後は、川浦小学校への委託入学として通学が続いた。
明治41年4月、学制改革により義務教育がさらに6か年に延長された。そこで村は川浦小学校への委託入学を廃止し、新屋敷に戸野目小学校第二分教場を設置した。
分教場へは尋常科3学年まで、そして4学年からは戸野日本校への通学とした。この制度は、その後多少の変遷はあったが、昭和43年3月に廃止となり、全児童が本校への通学となった。
なお、分教場の校舎は、廃校と同時に保育園に転用され、さらに昭和48年から町内の集会所として利用された。
「津有の郷 文化遺産めぐり」(平成26年津有地区地域づくり協議会発行)から抜粋して掲載しています。