大正15年(1926年)3月6日に、高田日報は、社告「上越名所旧跡投票」を掲載しました。
高田日報がこの社告を行った背景には、ライバル関係にあった高田新聞とのシェア争い、中央紙の進出に対する対抗手段、国及び県が行っていた文化財保護施策の影響などが考えられます。
1か月間にわたった投票期間中には、6回の中間発表が行われています。中間発表のたびに順位は大きく変動しており、単なる人気投票ではなく、地元の組織的な投票活動があったものと推測できます。
高田新聞は、明治16年(1883年)に改進党の機関紙として誕生しました。高田日報は、明治40年に政友会の機関紙として誕生した上越日報がその前身であり、翌41年に高田日報に改称しています。両紙は発行部数も拮抗し、ライバル関係にありましたが、不偏不党をモットーとする中央紙の進出の影響もあり、次第に政党との関係を薄めていきました。昭和15年(1940年)、物資の窮乏による第1次新聞統制により両社は合併し、上越新聞が誕生しました。
明治15年4月4月18日に「上越名所旧跡投票」の結果が紙面で発表されました。第1位に滝寺不動、第2位に能生白山神苑、第3位に林泉寺が選ばれました。当選した第11位までの名所旧跡は、後日、写真入りで詳細に紹介されました。
大正15年当時、高田日報(朝刊)の紙面は、次のような構成でした。
第1面:広告、欄外に列車時刻表
第2面:中央の政局、県内・上越地域に関する重要な記事
第3面:県内・上越地域に関する記事、広告
第4面:連載小説、広告
第5面:特集記事、社会・総合
第6面:連載小説、株式、市況、広告、欄外に列車時刻表
「上越名所旧跡投票」で百票以上の得票を得た名所旧跡23か所30点の絵葉書を紹介しています。
いずれも公文書センター所蔵で、明治末期から戦前に発行されたものです。
大正8年4月10日、史蹟名勝天然紀念物保存法が成立しました。同法を受けて、同13年に新潟県は、史蹟名勝天然紀念物調査会を設置し、県内の該当箇所の調査を開始しました。この調査報告を受けて、新潟県は昭和13年に「新潟県史蹟名勝天然紀念物」を刊行しました。
同書に収録された上越地域の史蹟及び天然紀念物を紹介しています。