大日本沿海與地図を作成するために全国各地を測量した伊能忠敬は、上越市域を2回訪れています。1回目は、享和2年(1802年)に実施された第3次測量です。このときは、東北・越後の日本海沿岸の測量を目的としていました。上越地域では、鉢崎関所(現柏崎市)・柿崎・潟町・今町を通過した後、沿岸を離れ高田城下経由で信州に抜けました。2回目は、翌享和3年に東海・北陸・越後・佐渡を測量した第4次測量です。越後では、前回未調査の越中との国境から今町までの測量を行いました。今町以東は測量済みであったので、佐渡へ渡るため尼瀬町(現出雲崎町)へ急行しています。
かつて渡辺慶一氏が筆写された「測量日記五」(享和2年の第3次測量)を原典としています。享和2年10月2日に発生した鉢崎事件、これを受けて同5日に忠敬が高田城下から出した先触等の抄出です。
かつて渡辺慶一氏が撮影された「測量日記七」(享和3年の第4次測量)の写真資料です。享和3年8月8日から同23日までの日記で、哥村(現糸魚川市)から尼瀬町までの行程が記されています。
第3次測量が開始される約2か月前に、「測量御用」に協力するよう、勘定奉行から榊原家の留守居役に通達があったことが記されています。
第3次測量の際に、3回にわたり先触が高田城下にもたらされたことが記されています。
今町の大肝煎を務めた福永家旧蔵の資料です。渡辺慶一氏がかつて筆写されたものだけが残されており、原資料は所在不明です。享和3年の第4次測量時に、東海地方の町役人から各宿駅経由で今町にもたらされたものだと思われます。忠敬に提供しなければならない情報の種類や、一行のもてなし方などが記されています。