江戸時代に、高田城下や直江津今町などの市街地で暮らしていた一般の町人は、風呂を持たず、風呂屋(湯屋とも呼んでいた)に通いました。江戸時代後期には、高田城下には19軒、直江津今町には8件の風呂屋が営業していました。今回の出前展示会では風呂屋の営業の様子を伝える資料を紹介します。このほか、農村部に開設された鉱泉や富裕層が行った湯治にかかわる資料も展示します。
「記録便覧」は、地域や役職・職業などの項目別に藩内の記録をまとめた資料です。全部で27巻に及びますが、第25巻には、「風呂屋」の項が設けられています。風呂屋の記録は、寛保3年(1743年)1月25日から始まり、享和元年(1801年)2月20日で終わっていますが、高田城下の風呂屋の営業の様子や藩の施策などをとらえることができます。
本資料は、直江津今町の風呂屋株仲間8軒が、慶応4年(1868年)5月に町会所に提出した湯銭の値上げの要望書です。幕末の急激なインフレーションの進行による物価の高騰に両替の下落も重なり湯屋(風呂屋)渡世が立ち行かないこと、高田城下並みに湯銭を値上してほしいことを訴えています。
弘化4年(1847年)3月に発生した善光寺地震の後、大貫村字臥蛇池頭(がじゃいけかしら)では鉱泉が湧き出しました。本資料は、同所での湯治場の開設を願い出た六兵衛が、藩から課せられた諸条件を受け入れ営業を開始する際に提出した一札(いっさつ)です。この日付は嘉永4年(1851年)2月です。ちなみに、「万年覚(まんねんおぼえ)」(榊原家文書:高田図書館所蔵)には嘉永2年2月に市郎左衛門が同所の開湯を願い出ていることが記載されていますが、この間の経緯については不明です。
飯村の庄屋を務めていた大山重五郎は、文政6年(1823年)6月14日から松之山温泉へ湯治に出かけました。本資料は、重五郎が出発前に大肝煎所(おおきもいりしょ)へ提出した「入湯願」の控えで、留守中の代役を任された甚平の手元に残されたものです。別資料の「入湯帰村届」から、重五郎が同月28日に帰村したことが分かります。往路・帰路とも途中で1泊する必要があり、松之山温泉での逗留(とうりゅう)期間は13日間だったと推定されます。
横川村の庄屋であった丸田某(なにがし:名前不詳)は、天保3年(1832年)6月13日から同月28日まで、松之山郷湯本村の湯宿三国屋で湯治を行っています。本資料は、この湯治期間中に丸田が記した日記です。丸田自身の記録からは、丸田が馬に乗って出かけたこと、往路・復路には馬口引(うまくちひき)と負(おい)人足の2人が同行したこと、逗留中に数多くの見舞品が届けられたことなどが分かります。また、日記には三国屋から渡された請求書(「覚(おぼえ)」)も綴じ込まれており、江戸時代の湯治場ではどんなサービスがどれくらいの値段で提供されていたのか、具体的に把握することができます。
本資料は、長者町の庄屋を務めた吉田家に伝来した資料です。包み紙には、「上州くさ津温泉名所全図」と記されており、番付表の中央部には草津温泉の俯瞰(ふかん)図が大きく描かれています。番付表に「弘化二巳年改」とあることから、1854年以後に吉田家の当主あるいは家族が、草津温泉で購入したものだと考えられます。なお、番付表の「前頭」欄に、越後国の「松の山の湯」(松之山温泉)や「関の山の湯」(関温泉)が確認できます。