日本人は、諸外国に比べて時間に正確であるといわれます。実際に鉄道は、分単位で発着時刻が定められ、事故等がない限り遅速なく運行されます。また、待合せや会議等の約束の時間も遅刻は厳禁です。子供のころから5分前行動を指導される日本人にとっては、これは当たり前のことですが、来日した外国の方の中には、驚かれる人もいるようです。しかし、そんな日本人も、昔から時間に正確であったわけではないようです。
今年(2020年)は、時間を正確に守ることを目指した「時の記念日」の制定100周年に当たります。そこで今回は、江戸期から昭和にかけての高田における報時(時を知らせる)手段の移り変わりを追うとともに、各時代の人々がもっていた時間観念についても考察してみます。
本展示内容の概要を、次の「展示説明資料」に分かりやすくまとめましたので、ご覧ください。
「時の鐘」とは、時刻を知らせるためにつく鐘のことです。「高田市史」(昭和33年)によれば、高田城下では、城下が最も栄えた松平光長の時代、寛文6年(1666年)に初めて設けられたとあります。瑞泉寺(南本町3)に現存する「時の鐘」は、その3年後、寛文9年に光長(一説には光長の母で、3代将軍:家光の姉であり、「高田姫」と呼ばれた勝子)が鍋屋町(東本町5)の鋳物師(いもじ):土肥左兵衛尉藤原宅次に命じて鋳造させたものと伝わります。高さ132センチメートル、直径92センチメートルの大きな鐘です(別紙写真資料参照)。
別紙写真資料:時の鐘とその銘 [PDFファイル/478KB]
「時の鐘」の撞役(つきやく)は、代々の吉田七兵衛で、明治9年(1876年)に時の鐘が廃されるまでの約210年間、一日も休まず鐘を撞き、城下に時を知らせる役を担いました(別紙資料A参照)。
吉田家は、鐘撞役になる前は、高田城下の町年寄(まちどしより)を担った四家の一つでした。町年寄とは、町人を統括するとともに、領内の百姓・町人の頂点に立つ家格と、多くの特権を有していた町役人です。この四家は、城下の中心地であった呉服町(本町2)筋と大手道からなる十字路の四つ角に居住していたことから「四つ角役」とも呼ばれ、吉田家は南東の角にありました(下図参照)。
その後、吉田家は、寛文2年(1662年)に町年寄の役料とされた敦賀(つるが)廻米(かいまい)に失敗し、町年寄役を罷免(ひめん)され、家屋敷を召し上げられました。しかし、それまでの町年寄としての働きが考慮され、吉田家の屋敷地の東端:馬出(うまだし:大町2)に新たに設けられた時の鐘の撞役を命じられるとともに、そのまま四つ角の屋敷に住み続けることが許されたのです(別紙資料B参照)
下は。別紙資料Bの写真です。
下は、瑞泉寺に伝わる「時の鐘」に関する「広報じょうえつ」の記事です。
瑞泉寺の「時の鐘」に関する「広報じょうえつ」の記事(その1) [PDFファイル/369KB]
瑞泉寺の「時の鐘」に関する「広報じょうえつ」の記事(その2) [PDFファイル/261KB]
安政元年(1854年)12月、朝廷は五畿内七道諸国司に宛て、太政官符「応以諸国寺院之梵鐘鋳造大砲小銃事」を発しました(資料A)。
ペリーをはじめとする外国船の来航が背景にあり、それに対する海岸防備が目的でした。これを受けて幕府は諸藩に対し、大砲等を鋳造するために寺院梵鐘の供出を布告しました。しかし実際は、幕府が、この梵鐘供出に対する諸寺院・檀徒たちの反対を恐れ、朝廷の権威を利用して宣下を朝廷に要請し、これに朝廷が応えたと考える方が適当ではないかと思います。
下は、資料A:太政官符「応以諸国寺院之梵鐘鋳造大砲小銃事」の写真です。
上越においても、各村は各寺院の梵鐘の数やサイズを調べて報告を上げるなど、その対応に追われました(資料B・C)。その後、実際に供出に至った寺院があったのか否かは不明です。
なお、本布告では、本寺の鐘・古来の名器・今現在時の鐘として用いている鐘を除いて、その他はすべて大砲等に鋳換するとしています。したがって、高田の「時の鐘」は、当初から供出対象から除外されていたので、このときは事なきを得ました。しかし、明治9年3月の大火で「時の鐘」の鐘楼が焼け落ち、音が悪くなったため、名鐘「時の鐘」は約210年間の報時の役を終えました。その後、瑞泉寺に請われて引取られ、現在に至っています。
下は、資料B:「梵鐘供出触書」の写真です。
下は、資料C:「梵鐘書上帳」の写真です。
日中戦争、太平洋戦争と戦争の長期化に伴い、武器生産に必要な金属資源の不足から、昭和16年(1941年)に「金属類回収令」が出されました。その対象は、資料Aのとおり、寺院等にも及びました。
下は、資料A:寺院等に対する金属類回収令を受けて県が市町村に出した通知の写真です。
資料Aによれば、回収品目は宗教用具:梵鐘(ぼんしょう)や鉦(かね)、蝋燭立(ろうそくたて)など、境内工作物:塔や天水受(てんすいうけ)など、什器(じゅうき)類:燭台(しょくだい)や薬鑵(やかん)などの鐵(てつ)や銅を主たる材料とする物全般にわたります。これを受けて、全国的に「梵鐘供出」が行われました。上越においても、ほとんどの寺院の梵鐘が供出されました。
梵鐘供出の実際の様子(写真) [PDFファイル/833KB]
寺院等に対する金属回収には、「除外物件」も定められていました。この「除外物件」には、1:神鏡や仏体等の直接信仰の対象となっているもの、2:国宝等、とならんで、3:「歴史上、美術上又ハ當該(とうがい)寺院、教會ノ由緒上特ニ保存ノ必要アルモノ」も含まれていました。仏体等は1や2によって明確に判断できますが、3の「歴史上、美術上、由緒上」は基準が曖昧です。
そこで県は、資料Bのとおり、基準が曖昧な3について、対象としては梵鐘が想定されることから「例えば梵鐘」と例に挙げながら、その認定申請の手続きについて市町村に通知を出したと考えられます。
下は、資料B:「除外物件認定申請取扱」通知の写真です。
瑞泉寺の梵鐘については、「美術上」は、他寺院の梵鐘とは形態と構造が異なっている点が特長です。「由緒上」については、「時の鐘」であったという特長があります。問題は「歴史上」であり、慶長(1600年前後)以後の場合はきびしかったようです。しかし、瑞泉寺の「時の鐘」については保存運動が起こり、かろうじて供出を免れ、現在に至っています。(「時の鐘」供出騒動については、下の資料5の添付記事、または展示会場で掲示している新聞記事をご覧ください。)
サイレンによる報時は、高田では昭和3年(1928年)2月11日から、直江津では昭和7年4月29日から始まりました。前者は「紀元節(きげんせつ)」、後者は「天長節(てんちょうせつ)」であり、いずれも「佳辰(かしん:めでたい日)を卜(ぼく)し」た日付であったと考えられます。高田・直江津共に中央電気株式会社(後に東北電力)による奉仕で、高田では本社(大町2)屋上、直江津では直江津変電所屋上(後に大神宮境内)にサイレンが設置されました。
時間は、
「高田市史」(昭和33年)には、当初は朝と正午に時刻を知らせたと書きつつ、「現在(昭二九)は午前六時、七時、正午の三回」とあるのみで、いつから3回になったのか、午前6時を加えた理由は何だったのかについて触れていません。
本資料Aには、その謎に対する答えが記されていました。すなわち、普及し始めたラジオ体操の開始時刻に遅れないようにするための合図としての役割を、直江津町民がサイレンに求めていたことが読み取れます。それを受けて、町役場が中央電気に依頼し、昭和8年の途中から、4月~10月の間、午前6時のサイレンが加わりました。おそらく高田市でも、同じ時期、同じ理由で、3回になったと考えられます。
下は、資料A:時報回数増加依頼文書、B:時報回数増加承諾文書の写真です。
高田図書館には、明治41年以降の郷土の新聞が保存されています。明治41年は、第十三師団が高田に入城した年であり、師団による午砲が開始された年です。したがって、保存されている郷土の新聞記事を年代順に読むと、報時手段が午砲、 汽笛、煙火、サイレンと推移した様子がわかります。また、時の鐘が鳴り響いていた昔を懐古する記事や「梵鐘供出」に対する時の鐘の保存運動を伝える記事も見られます。これらを含めて、展示会場では35の記事を展示、掲示しています。
これらの記事を読むと、戦前の上越の人々の時間観念は、現在とは違っていたことがわかります。汽車の運行等のように正確な時間管理に順応すべきは順応しつつ、一方で多くは緩いままで変えようとはしていません。それはまるで、無意識に、生活のすべてが時間によって支配されることを拒んでいるかのようです。
記事は、高田や直江津の人々の時間観念の緩やかさに、総じて批判的ですが、諦観(ていかん)している感もあります。高田に赴任したばかりの新人記者が、早速「高田時間」の洗礼を受けた顛末(てんまつ)を載せた記事は、当時の高田市民がもつ一般的な時間観念の程度を、実際の出来事を基に伝えています。この他にも、当時の人々の時間観念を知る上で、興味深い記事がいくつもあります。「時の記念日」を制定し、生活の合理化、効率化を目論んだ国にとってははがゆいばかりでしょう。
ところで現在、明治6年から実施されている「12時間制」(午前・午後を付けて時刻を表す)と共に、「24時間制」も併用されています。24時間制は軍隊では早くから採用されていましたが、日常生活に関わるところでは、昭和17年(1942年)に汽車の発着時刻の表示を12時間制から24時間制に変更したのが始まりであったことも、記事からわかります。
下に、展示会場で展示、掲示している35の記事の中から1つを載せておきます。