今回の展示期間中に4月11日を迎えますが、この日が「メートル法記念日」だと知る人は少ないでしょう。今から100年前の大正10年(1921年)4月11日、計量単位をメートル法に統一する改正度量衡法(かいせいどりょうこうほう)が公布されたことによります。それまでの度量衡法では、尺貫法(しゃっかんほう)、メートル法、ヤードポンド法という3種類の計量単位が公認され、併存併用されていました。ほぼメートル法しか知らない現在を生きる私たちにとっては、ちょっと驚きです。
法律上、メートル法に統一されたとはいえ、予想される社会的混乱を緩和するために実施までの猶予期間が設けられました。それは度々延長され、完全実施は昭和34年(1959年)1月を待たねばなりませんでした。また、メートル法が馴染みある感覚として定着するためには、更なる時間を要したのです。
今回は、国の方針として早い時期に導入が決定され、段階的に法も整えられながらも、なかなか統一できなかったメートル法に焦点を当て、郷土の史料も活用しながら完全実施までのドタバタを紹介します。
本展示の概要を、次の「展示説明資料」に簡潔にまとめましたので、時間のない方はこちらをご参照ください。
日本で記録に残る最古の計量制度は、701年の大宝律令(たいほうりつりょう)で定められた度量衡制度です。支配する領域を安定的に経営するためには、税や貨幣、土地の制度の確立がその根幹となるため、それらの基準や価値を統一的に定めようとしました。そのためには、計量の基準を定めることが必要であり、権力者は長さ(度)、体積(量)、重さ(衡)の3種類の単位を規制しようとしたのです。
例えば豊臣秀吉が、太閤検地の際に各地でバラバラであった計量単位を統一しようとしたことを御存知の方も多いでしょう。全国統一上、計量単位を統一した方が都合がよかった証左です。
右は、『徳川幕府縣治要略』(国立国会図書館蔵)に収められている、江戸時代の検地の様子を表した図です。
江戸時代の取引における計量は、体積(量)は枡(ます)、重さ(衡)は秤(はかり)が主役でした。とりわけ年貢の徴税等に欠かせない枡は重要で、幕府としては公認の枡座のみによる製造販売の独占を企図しましたが、独自の枡座を置くことを許された藩もあり、結果的に計量の基準は全国的に完全には統一されていませんでした。
江戸時代において枡は、米をはじめ、塩、油、酒、醤油等の生活に欠かせない物品の取引を公正に行うための計量器です。権力者はその規格や運用等を統一し、安定した日常生活を保障することに意を注ぎました。それは同時に、自らの威光を知らしめる役割も果たすからです。したがって幕府は、自らが公認した枡座による全国統一規格、運用を企図しますが、独自の枡座を置くことを許された藩もありました。高田藩は、その一つです。
高田では、城下の町人を統括する町年寄(まちどしより)が、特権的に枡座を営んでいました。後掲する「高田町年寄森家文書」の「森家」は、町年寄役を世襲的に担った家の一つです。高田枡座の規格による高田枡は、松平光長改易(1681年)後に藩領が小さくなった後も、魚沼や柏崎、糸魚川、信州の一部をも含めて旧領全域に広く通用しました。
右は、文化12年(1815年)に高田枡のサイズを書き上げた「覚(おぼえ)」(高田町年寄森家文書:公文書センター所蔵)です。江戸枡と同じサイズになっています。これは、松平光長改易後に、高田が一時的に幕府領となった際に、江戸枡サイズを受け入れて以来のことです。しかし、高田枡座の存続は、妥協せずに守り抜きました。
一方、幕府が枡の一元的支配を企図した事案として、安永5年(1776年)、幕府が東日本33か国に対して、江戸枡座を務める樽屋(たるや)藤左衛門(とうざえもん)の枡の通用を強制しようと試みた件があります、高田枡座も廃止を命じられました。これに対して高田は、ねばり強く訴願を繰り返します。
右は、安永9年(1780年)に高田町惣年寄が提出した「乍恐奉願口上」(高田町年寄森家文書:公文書センター所蔵)で、「高田桝座存続願書」とも言うべき文書です。
高田町惣年寄らによる訴願の主旨は、次の点です。
榊原高田藩は、基本的には町年寄(榊原時代になってからは「惣年寄」)の強大な力を抑制しようとする傾向にあります。しかし、この高田枡の件については、藩領外にまで広く通用する実績は、藩の威光を高めることにもつながるため、長岡藩や新発田藩等がどう対応しているか情報を集めるなど、町年寄と協力しながら対応しています。その結果、天明2年(1782年)に存続が認められ、明治維新を迎えます。
枡と並ぶ重要な計量器としては、秤(はかり)があります。江戸時代、東国を中心に秤の管理を独占したのは江戸秤座の守随家(しゅずいけ)ですが、高田では、呉服町(現在の本町3丁目)の馬場家が守随家の代官として、代々秤の製造販売や改めを行っていました。
左写真の秤は、明治期以降、町医者をしていた人が用いたと伝わる「竿秤」です。竿秤とは、てこの原理を利用した計量器です。皿に量るものを乗せたり、鉤針(かぎばり)に吊るしたりし、取っ手となる紐を支点として、竿の他端にかけた分銅の位置を動かして、つり合ったときの目盛りを読みます。左写真の秤には取っ手となる紐(支点)が2つ付いており、皿から遠い方の紐(上緒:うわお)を支点としたときには30匁(もんめ)まで、近い方の紐(下緒:もとお)を支点としたときには200匁(750グラム)まで量れるよう、竿には2種類の目盛りが付いています。
皿には「長岡 金井」と刻印があります。長岡藩士だった金井は明治初期に上京し、守随家で修業して、長岡に戻って開業した全国有数の秤製造業者でした(現在も「金井度量衡株式会社」として営業を続けています)。
長さの計量単位である「メートル」は、約225年前のフランスで生まれました。それ以前には、権力者の体の一部の長さを基準(単位)とすることも多くあり、例えば「王様の足」(0.325メートルに相当)という単位があったそうです。しかしこれでは、権力者の都合のよいように恣意的に運用されたり、活発化する地域や国をまたぐ取引に対応できなかったりと、不都合が生じてきました。
そこで18世紀末、時あたかもフランス革命期に、世界中に受け入れられるような普遍的で自然に由来する新基準を創造する検討に入りました。その結果、「パリを通る北極から赤道までの地球4分の1周の子午線の長さを測量して、その1千万分の1の長さを1メートルとする」という案が採用されました。地球の円周が4万キロメートルであることを御存知の方も多いでしょう。これは、測ってみたら偶然4万キロメートルだったわけではなく、メートルという長さの新基準を決める前提条件として地球一周を4万キロメートルと想定し、その4千万分の1の長さを1メートルにしたということです。
なお、「メートル(mètre)」の語源は、「ものさし」や「測る」を意味する古代ギリシア語μέτρον(メトロン)だそうです。米英語ではmeter(メーター)で、日本で「メーター」と発音する場合には、計量器を指すことが多いですね。
次に、体積と重さの単位ですが、一辺が10センチメートルの立方体の体積(1000立方センチメートル)を1リットル、1リットルの純水の質量を1キログラムと定義されました。つまり、体積も重さも、長さの基準であるメートルをベースに単位が構築されました。メートル法と言うと、長さだけをイメージする方がいるかも知れませんが、体積も重さも考え方のベースにはメートルがあるのです。
メートル法の特長は、次に示すように、単純性、普遍性、論理的かつ合理的構成にあります。
1メートルの長さが確定したので、実際にこの長さを示す「メートル原器」を当時の最高の技術で製作し、日本等のメートル条約加盟国に配布されました。そして、この「原器の両端にある2本の目盛り線の中心間の温度0℃のときの距離」が長らく1メートルの定義とされました。しかし1983年(昭和58年)からは、「299,792,458分の1秒間に光が真空中を伝わる距離」とされています。
また、「キログラム原器」も同時に製作され、130年間にわたり1キログラムの現示器としての役割を果たしてきましたが、2019年(令和2年)にその役割を終えました。新しい定義は、日本の技術により確定できたプランク定数という物理定数を使用したものに変りました。
江戸時代の日本では、各地で独自の度量衡基準を設定している場合も多くありました。近代的な統一国家を目指す明治政府にとってこの状況は、国内的にはもちろん、外国との取引等においても不都合でした。
そこで政府は、1871年(明治4年)に衡(重さ)の基準として1匁(もんめ)を3.756521グラム、1874年に度(長さ)の基準として1尺(しゃく)を1メートルの10/33と定めるなど、国内における度量衡基準の統一を図りました。ここで重要なのは、形式上は尺や匁等の尺貫法を基本としながらも、それがどれ程に当るかの基準をグラムやメートル等のメートル法に求めている点です。そして1885年(明治18年)、メートル条約に加盟するに至ります。18世紀末にフランスで誕生したメートル法は、19世紀に少しずつ世界に広がり始めていましたが、日本もその仲間入りする方針を明確に示したのです。ちょうど明治維新期であり、政府の若き改革者たちには尺貫法への固執がなく、むしろ近代化への障壁になると考え、柔軟にメートル法を採用したと考えられます。その後の動きは、下の年表のとおりです。
この間に、尺貫法存続運動、戦争が起こり、猶予を1958年まで延長することとなった。
明治34年の昭和天皇生誕時の身長体重は、1尺6寸8分、800匁と尺貫法で発表されました。一方、昭和8年の現上皇生誕時には、50.7センチ、3260グラムとメートル法で発表されました。この間の大正10年に度量衡法が改正されてメートル法への統一が決められていますから当然ではあるのですが、実は昭和8年段階でメートル法で言われても、その身長体重を具体的にイメージできた人は少なかったのです。したがって、『高田日報』(12月24日)は、誕生した皇太子(現上皇)の身長体重を、メートル法表記の後に括弧書きで尺貫法表記を併記して伝えています。
「高田日報」(昭和8年12月24日)の記事 [PDFファイル/735KB]
このようにメートル法への統一は決められたものの、実生活では馴染んだ尺貫法が使用され、完全実施への猶予期間は度々延長されたのです。この間、改正度量衡法が公布された4月11日を、大正14年から「メートル法記念日」とし、大正末から昭和初期にかけて、毎年その日にイベントを開催するなど、政府等によってメートル法の普及施策が活発に行われました。高田市や直江津町でも、メートル法記念日に煙火を打ち上げ、楽隊付きの宣伝カーを出し、懸賞募集、メートル法による試売等を行っています。
昭和2年には、猶予期限が一部満了することもあり、新潟県は各市町村長に対し、メートル法による試売、メートル法による価格表示、メートル法による里程標の建設等をするよう通達しています。さらに、各小学校長には「家庭に於ては尺貫法のみの強要を避け、児童の度量衡智識を混乱破壊せしめざるやう」保護者に指示するよう求めています。また、直江津町では、記念日ではない7月に「メートル展覧会」を開催するなど、この年はあわただしく普及活動が展開されました。右は、昭和3年度の直江津町議会における前年度の事務成績報告のうち、「メートル展覧会の開催」についての報告文書です。
「メートル展覧会」の報告文書の翻刻 [PDFファイル/211KB]
文部省は、尺貫法に馴染む前の小学生への教育が重要と考え、大正末から教科書の改訂作業に入り、順次、メートル法による教科書の使用が始まりました。尺貫法が染み付いている教師はともかく、小学生にとってはメートル法は十進法で簡単だと好評でした。しかし、家に帰れば大人は尺貫法でやり取りするので、困った状況が続きました。
したがって、このころメートル法を一番理解していたのは小学生であり、『高田新聞』(昭和8年4月13日)に「子『この橋、何メートルあるの』、母『430間よ』、子『430間って何メートルなの』」と親子の会話がかみ合わなかったという万代橋での実話が載っています。同紙は昭和2年に「十年後の世界に立ち働くべき児童のメートル法習得を十年後は此(この)世界から消ゆる大人共(ども)が邪魔をして」いるという記事を載せていますが、これが実態でした。
大正元年検定(改訂前)の「尋常小学算術書 第六学年」 [PDFファイル/470KB]
昭和7年検定(改訂後)の「尋常小学算術書 第六学年」 [PDFファイル/488KB]
東京や大阪など都市部の百貨店では、このころからメートル法表示に切り替えています。多様な商品を扱う百貨店にとっても単位の統一は望ましく、その普及に協力的だったのでしょう。とは言え、店員に聞けば尺貫法に換算して教えてもらえるのですが、気位の高い人は聞けずに買い物ができず、手ぶらで出入口に戻って下足番から自分の下足を出してもらわねばならなくなり、恥ずかしい思いをした人もいたようです。『高田新聞』は、某県の知事夫人らが三越へ行って6階まで全館を巡りながら何も買わずに帰った話を挙げ、倹約に努める賢夫人だからではなく、当時積極的にメートル法を採用し始めた百貨店では買い物ができなかったに過ぎず、下足番の冷笑を受けたことを紹介しています(昭和初期の百貨店は、下足預かりから土足入店への転換期でした)。
左は、昭和初期の松坂屋上野店の包装紙(飯塚高宏家文書:公文書センター所蔵)です。「諸等数換算表」が付いており、グラムと匁、メートルと尺(曲尺、鯨尺別)を容易に換算することができます。例えば、表の上部はグラムと匁の換算表ですが、その1行目に375、100、26.6と数字が3つ並んでいます。これは100グラムは26.6匁、100匁は375グラムであることを表しています。同様に左下部(曲尺:かねじゃく)では、1メートルは3.3尺、1尺は0.3メートル、右下部(鯨尺:くじらじゃく)では、1メートルは2.64尺、1尺は0.38メートルとなることが容易にわかる表になっています。
メートル法の普及が進められる一方、戦時下の1933年(昭和8年)ころから国粋主義が台頭し、尺貫法存続運動も活発になりました。『高田日報』(昭和8年8月15日)は、「日常使用する身の廻り品一切は古来尺度を以て計られ、米突(メートル)は或特殊のものに限られてゐ(い)る。此の際日本国有の尺度を廃し米突法に改める事は何の利益あるか、之を改むる事に依って一般国民が如何(いか)に脳力と時間の不経済と不便を蒙らなければならないか」とメートル法反対派の声を伝えています。最終的には、猶予期間を1958年(昭和33年)まで延長することになりました。
1951年(昭和26年)に、度量衡法を全面的に見直した計量法が公布され、尺貫系単位とヤードポンド系単位の使用期限を昭和33年末としました。そして、翌34年(1959年)1月からメートル法が完全実施されました。大正10年(1921年)に計量単位をメートル法に統一する法改正が行われてから、40年近くを要したことになります。当初、一般家庭における猶予期間を20年と設定していましたから、その倍近く掛かったということになります。
高田、直江津両市は、「計量法の施行に伴う計量単位の整理に関する条例」を制定しました。右写真は、その議案書です(「昭和卅参年十二月拾六日 原按可決 高田市議会議長」の判が押してあります)。他の条例で用いられていた尺貫法やヤードポンド法による単位を、メートル法単位に整理する必要があったからです。具体的には、
ヤードポンド法からメートル法へ
尺貫法からメートル法へ
等、条文中の単位を改め、「六尺」の文言を「百八十二センチメートル」のように数値も換算するなどして変更されました。
また両市は、完全実施の前後に、広報で市民にメートル法の普及をしています。『広報たかだ』(昭和32年4月1日)には、「洋服の生地は何ヤールいくら、ワイシャツの首まわりは何インチ、何尺何寸で仕立てた和服に着がえて、何合何升で量った酒をのむ、坐(すわ)る部屋は何間(けん)四方か何畳とやらで、食べる牛肉は何匁で勘定する、手あぶりの炭は何貫匁(かんめ)と称し、ガスストーブなら何立方メートルとくる。複雑にして怪奇をきわめているのが、われらの身のまわりをとりまく度量衡というものだ。」とあり、従来の度量衡単位を否定的に伝えています。一方、メートル法は「物の勘定のやゝこしいのに業(ごう)をにやし、すべての勘定を世界一律に統一したらよかろう」と提案されたと肯定的に紹介しています。さらに、『広報たかだ』(昭和33年6月1日)には「升で供出した米をキロで買い、ヤールの洋服や尺の着物を着て、日本酒は升や合で飲み、洋酒やビールはリットルで飲んで、目方(めかた)を貫ではかる相撲取りや、キロやポンドではかるレスラーやボクサーを平気で見分けて来たのです。このほか砂糖は斤(きん)ですし、靴や足袋(たび)は文(もん)と、まったくよく間違えなかったと感心するほどはん雑、一時的に少しの混乱があっても一日も早くメートル法に慣れなければなりません。」とあります。『広報なおえつ』(昭和33年12月10日)では、「違反した場合には、五万円以下の罰金」という罰則にも触れ、いずれにしてもメートル法の普及を促しています。しかし、完全実施1年後の『広報たかだ』昭和35年1月1日号には、「普及率は七五%程度という余り芳(かんば)しくない成績です」とあり、特に魚菜(ぎょさい)類で依然として尺貫法が用いられている実状を指摘しています。
「広報たかだ」の記事1 [PDFファイル/1024KB] 2 [PDFファイル/987KB] 3 [PDFファイル/235KB] 4 [PDFファイル/349KB]
また、大潟町はメートル法専用実施に関する文書のみを綴った簿冊を遺しており、県や市町村によるメートル法実施前後の施策の詳細を知ることができます。例えば新潟県は、昭和34年からのメートル法完全実施に向けて、昭和32年の末から、各市町村に対して次の指示をしています。
県が作成したメートル法普及資料(1ページめ) [PDFファイル/408KB] (2ページめ) [PDFファイル/482KB] (3ページめ) [PDFファイル/427KB] (4ページめ) [PDFファイル/377KB]
昭和33年中の文書には「既に本県では新潟市のデパートも食料品を始め全部メートル法で売ることになり2月1日から全店が実施」(2月)、「都市に比べて地方は関心が薄い」(5月)等とあり、さらに同年後半からは「県内においても既に40数市町村が実施にうつされておりますので貴町村においても一日も早く実施を願う」(10月)等の文言も見え、県の焦りも感じます。また、8月の業者への説明会では代理出席が多かったのでしょうか、県は10月の実施打合せ会時には「店員等を代人として出席させぬこと」と「代表者本人」の出席を強く求めています。加えて、完全実施直前の12月を「メートル法使用推進月間」とし、市町村に対して「遺漏のないよう残された一ケ月間に充分徹底」するよう要請しました。
完全実施後の2月には、国からの依頼を受けて、県は実施状況調査をすべての業者を対象に行いました。住所、氏名、業種、取扱商品名、メートル法実施年月日、実施していない場合の理由を問うものです。大潟町では、大多数の業者が1月1日以前から実施していると回答していますが、中には「不馴れの為め尺貫法と併用」等と正直に答えているもの、「御客様の都合のよきようにして居る」、「従来の建物が尺貫法で出来て居る為めにわかに全部メートル法実施出来がたし」等と顧客あっての商売であることを完全実施できない理由に挙げているものもあります(左写真参照)。最終的に町で集計し、業種(取扱商品)ごとの実施率、実施の遅れている商品と理由等を一覧にして県に報告しています。さらに、4月にメートル法推進功労者の推薦を各市町村に依頼するなどして、取組姿勢に温度差のある市町村に対して多様な手段を用いて、円滑な完全実施への移行を促しています。
完全実施後、数次の改正を重ね法体系が複雑化したため根本から見直す大改正を実施し、1993年(平成5年)11月1日に「新計量法」を施行しました。そして法定計量単位として「SI単位」を採用しました(天気予報の気圧の単位が「ミリバール」から「ヘクトパスカル」に変ったことを覚えている方も多いでしょう)。SI単位は、メートル法を基本とした計量単位系で、SIとは「国際単位系」という意味があります。その単位定義の改定等は、メートル条約加盟国で決めています。日本は、1885年のメートル条約加盟以来、段階的にメートル法へ移行してきたので、混乱なく移行ができました。
現在、SI単位系はほぼ全世界で法定計量単位として使用されています。しかし、大国と呼ばれる国の中で唯一採用していない国がアメリカで、ヤードポンド法を使用しています。ヤードポンド法はイギリス発祥ですが、そのイギリスも約20年前にSI単位へ移行しています。
アメリカは、メートル条約の原加盟国であり、法律上はメートル法が公式単位ですが、実際はヤードポンド法を「慣用単位」と呼んで使用しています。しかし、そのヤードやポンドの定義は、SI単位であるメートルやキログラムを基準にしています。また、科学等の分野では、メートル法がもつ一貫性(微細な値から宇宙規模の値まで、小数点を動かすだけで表現できる)、論理的合理的構成(長さや重さ等の単位は相互に関連している)等を重視し、以前からメートル法を用いていました。つまりアメリカでは、ヤードポンド法が広く通用していますが、それは根底にSI単位(メートル法)が置かれているからにほかならないのです。
それでもSI単位に統一しないのには、次の理由があると言われています。
アメリカがヤードポンド法を使用していることで、スポーツや航空機業界等で未だにヤードポンド法が用いられることも多くあります(大谷投手の速球がマイル表示では、いまいちピンときません)。国際的に各国は、単位系の統一を望んでいますが、上述のとおりそれは難しく、残念ながら単位の不統一が原因と考えられる事故も実際に起きています。完全統一はいつになるのか、可能なのか、それはまだ見通せません。
実際に起きた事故
アメリカが「SI単位」(メートル法)に統一しないことに対して、次のようなジョークもあります。
短期的には混乱はあっても、統一した方がアメリカにとっても、世界中の国々にとってもよいことは明らかなのに、そうしようとしないアメリカへの批判がある一方、日本にもSI単位以外に、日本酒や米の量を表す「升」や「合」、広さを表す「坪」や「畳」、「東京ドーム何個分」等、外国の人には通用しない単位を慣用的に用いている実態がありますね。
計量単位をメートル法に統一することを定めた改正度量衡法が公布された大正10年以降、戦時下にいたるころまでの地元紙の記事です。メートル法の普及に向けた様々な施策が展開されたこと、その一方で家庭や地域における関心は今一つであったこと、さらに戦時下における国粋主義の台頭等の影響を受けて尺貫法存続運動が始まり広がったこと等が記事から読み取れます。
メートル法が世界標準となり、それを当たり前のように使用している現在を生きる私たちにとっては、100年前の日本のリーダーたちが使い慣れた尺貫法等を捨ててメートル法への統一を決断したことは適切であり、よかったと思えます。しかし、当時の一市民として生きていたならば、使い慣れた単位を捨ててまでそれを支持できたかどうか、、、。