火防地蔵尊

印刷用ページを表示する 掲載日:2014年11月26日更新

地蔵を運ぶ若者(画像)

 寛延年間から宝暦年間(1748~64年)のころのことです。このころは、潟町宿と四ッ屋浜村との地境は、内藤昭二さんの屋敷の西南にある、土堤と平行して浜に下る道で、昔は、その道を四ッ屋浜道と呼んでいました。
 当時の四ッ屋浜村は、今の潟町の裏浜一帯の地域もその居住地になっていました。けれども、街道方面にあまり関心を持っていなかったため、行路死者や病人があると、いつも潟町と問題を引き起こしていました。
 時は明和2年(1765年)の秋のことです。親鸞聖人の御旧跡や24輩の寺寺を巡拝して、潟町にたどり着いた1人の巡礼がいました。巡礼は松林の間から、広々と見える日本海の絶景に見ほれていました。そして、去りもしないで数日を送るうちに、近所の子供たちとすっかり仲よしになり、手まりさえ一緒について遊ぶほどになりました。
 ところがどうしたことか、霜のしっとりと降りた朝、死体となって子供たちに発見されました。
 潟町では早速、死体の始末を四ッ屋浜の人に交渉しましたが、がんとして応じてくれませんでした。再三の交渉の結果、ようやく問題の街道の地域は潟町に譲り、四ッ屋浜には田中屋小路の下に当たる、磯端の権利を認めるということで、約定が成立しました。
 哀れに思った潟町では、巡礼の無縁仏をこの街道の一隅に埋蔵し、碑を立てて菩提を弔いました。
 それから4、5年後のことです。猿毛山中の石くが一体の地蔵様を彫刻しました。それはすばらしく立派な出来栄えで、石くもほれぼれするほどでした。そんなことがあった夜、地蔵様がまくら元に現れ、
 「自分の安住の地は、西の方の浜辺にあるから、その所に移すように。」
と告げられたまま、消え去られました。
 恐れを感じた石くは、その方角をいろいろと考え、その土地が潟町だと分かるや、早速お地蔵様のいわれたとおり、潟町を訪れました。そして庄屋にその事情をよく話し、買い取ってくれるように頼みました。話を聞いた庄屋は、「それはよいことだ」とすっかり喜び、組頭や百姓たちと相談し、わずかながらの巡礼の遺産で、その地蔵様を買い取る約束をしました。
 やがて潟町から5人の若い衆が、地蔵様を受け取りに車1台を引いて、猿毛山に向かいましたが、その中には剛力で評判の高かった安右衛門さん(現在の明治庵の祖先)もいました。芋の島村の芋の島橋を渡ろうとした時、この橋は大水の後の仮橋で、橋番人がいて
「いくら仏様でも危険だからご遠慮ください。」
と申し渡しました。そこで仕方がなく車はここに置き、安右衛門さんは1人で猿毛山へ行き、山で借りた車に地蔵様を載せて運びました。そして芋の島橋の上は、安右衛門さんが地蔵様を背負って渡り、自分たちの車に載せ替えて、やっとの思いで潟町に着くことができました。
 潟町に着いてからは、直ちに石碑の上に安置し、内藤徳三郎さん、渡辺儀助さん、田中彦四郎さんの祖先が世話役として、潟町に居住してこられ、毎年祭礼を続けられました。
 文化6年(1809年)11月、郡奉行の竹田太郎兵衛、長谷川順蔵の両役人が、御検地によって字名を地蔵とされて以来、続々と家が立ちならび、後に地蔵町と改められました。
 ・今でも1区の1組あたりを”地蔵町”と呼んでいる。
 ・芋の島村(今の柿崎区)
 それから10年後の文政2年(1819年)の8月7日の夜、潟町の鍛冶屋惣助の屋敷が火元で、108軒を全焼するという大火事がありました。この火事は提灯の置き忘れが原因なので、俗に提灯火事といわれています。
 この火事の前夜のことです。1人の坊さんが笈を背負って、潟町の村中を
「火事があるから気をつけよー、用心しろよー。」
と連呼しながら走り回っていました。その声に驚いた村人たちは家から飛び出しましたが、坊さんの姿はいつの間にか消えていました。その時だれやらが、
「あの坊さんは、上町(今の1区)の地蔵様のように思われるが。」
と言ったが、だれもそうだと信じる者はいませんでした。だが、「火事があるぞ、用心せよ」と連呼されたその翌晩、大火事が起こったのでした。
 村人たちは、「これはきっとあの地蔵様に違いない」というので、大急ぎでみんなそろって御堂へ行ってみると、これは不思議なことにお地蔵様は目にいっぱいの涙をたたえ、全身が黒こげとなっており、一同はびっくりしました。その上、かも瓜の種が体中、透き間なくついていました。
 このお地蔵様の姿を見た村人たちは、みんな驚き、すっかり感激し、合掌礼拝しました。そしてそれ以来火防地蔵尊と呼んで崇敬し、毎年4月23日と9月23日をそのお祭日とし、年々その祭礼を怠ることなく努めてきました。
 そのお祭りの際には、お札と豆を作り、参拝の方にはそれを配っています。

(「火防地蔵尊の由来記」より)


(出典:昭和63年5月30日発行 大潟町史)