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現在地トップページ > 市長の部屋 > 村山市長退任記者会見内容(令和3年11月8日)

村山市長退任記者会見内容(令和3年11月8日)

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年11月26日更新

村山市長の退任に当たり、記者会見を開催しました。

日時:令和3年11月8日(月曜日)午前10時~午前11時

会場:市役所401会議室

市長記者会見動画

会見冒頭の市長の挨拶をご覧いただけます。

令和3年11月8日開催の村山市長退任記者会見動画(外部リンク)

質疑概要

(市長)
 おはようございます。市長として、皆様、また各社の皆さんとこうやってお会いするのが最後の日となりました。私は、人生において今日が本当に嬉しい一日であってほしいと思いますし、そうしたいと思って今日登庁しました。
 12年前を少し振り返り、この市長に就くときの思いみたいなものがどこにあったのかと、自身に問いかけてみました。平成19年に、副市長として上越市に来たわけですが、その時、国土交通省と農林水産省等々の共管事業として、村格都市格の形成という大きな事業があり、国から上越市が選ばれ、その事業の対象市になりました。これは、全国で最多の14市町村の合併をしたという、大きな合併市であったということからでした。もう一つの市は、岐阜県高山市だったと記憶しています。合併した市の中では日本で最も面積が大きいというところで、この二つの市が選ばれました。当時の国の審査委員長は伊藤滋先生でしたし、今の静岡県知事の川勝平太さんも委員でした。新潟県からは、新潟大学副学長をされた五十嵐由利子先生もおいでになり、合併した町や都市はどうあるべきかというテーマで議論されたと思っています。
 私は、上越市の副市長として参加していました。その時に思ったことが、結果して、市長として、自身の中に大きく生きていたと思っています。
 「すこやかなまち」という大きなテーマを掲げながらまちづくりをしていこうという宣言をしました。そこには、人の心も体も健康でなければならない。まさに、すこやかでありたいという思いがある。合併したこの大きなまちにとって、都市機能、そして、そこに暮らす人々。その人々にとって、まさにすこやかでなければならない。すこやかなまちをつくっていきたいという思いが、私のその言葉の中にあったのだと、今、改めて思い返しています。
 そういう中で、私は、「市民がど真ん中」という言葉をキーワードとしながら、1期目の選挙に臨んだ記憶があります。まさに、市民を中心とするまちをつくっていく、そのまちが「すこやかなまち」であり、そこに暮らす人たちも心身ともにすこやかだということが私達にとって大切なのだと。この市にとって大切なのだという思いをいたしたところです。
 当時を思い返しますと、私が「市民がど真ん中」と言い出しましたら、選挙母体の皆さんから随分とこの言葉への非難がありましたが、私は、最後まで「市民を中心とするまちをつくるのだ」という思いを持って12年前にスタートしたと、昨日の夜、少し思い出しました。
 また、自身としては、上越市の行政のリーダーとなった中において、こうありたいという、無理かもしれないけどやりたいという姿を自身の中で決めたということがあります。それは、強い信念を持ちながらにこやかに人の話を聞くことができる、そういう人間でありたいと思って、12年前にスタートしたことも、昨日思い出していました。また、そうできたかと思っていました。
 市民に対しては、また自身が人としてどうなのかということでありますが、先ほど言った、村格都市格の検討の大きなテーマの一つであった地域の繋がり、人口減少、そしてまた少子化という中で、東京都の半分、23区の1.5倍の面積がある地域で、現在は、人口密度が200人を切っています。私は、人と人、人と地域、地域と地域の関係性、この繋がりを強固にしていく必要があると固く信じながら、その取り組みをやってきました。地域コミュニティを作っていく、守っていく、繋がっていく中で市民の皆さんにお願いしようと、また自身の中にも決めたことは、他者に対する寛容であり、自己に対する謙虚さです。この言葉の中には、排他性がないということです。自身に課した大きなテーマとして取り組んできました。
 時には矛盾し、時には葛藤することがありましたが、やはり最終的には、市民がこぞって幸せな、すこやかな生活を送る。すこやかなまちを実現する。そのためには、そういう思いを持って取り組んできたということです。
 しかしながら、どうでしょう、ここへ来て、大きく時代は変化しています。この変化の波を考えますと、私が就任したその前の年は、リーマンショックがありました。地域の経済が相当疲弊していたと。そしてそのときには、私も60歳でしたので、60歳という、定年制のようなものの中で、地域の企業の中で団塊の世代がどんどんリタイアしていく時代がありました。それは、如実に除雪などに影響を及ぼした時代でした。当時は、除雪のオペレーターがいないということもありました。
 リーマンショックを経て、平成23年の東日本大震災、上越においては板倉区国川の地すべり、そしてまた同じ板倉区で、東北電力の発電所の送水管が地震により傾き、4,000ヘクタールもの田に水が行かないのではないかという危機的な状況がありました。国川の地すべりについても2,300ヘクタールに及ぶ田畑に用水が不可能になるという、切実な時がありました。あの頃は本当に寝なかった、寝ても、うなされて起きたということを思い出していると、令和元年の台風による矢代川の決壊もそうですが、私にとって、この12年間、大きな災害の中で緊張の日々があったと思いますし、市民の皆さんもそれに耐えながら、また、それを克服して、今日があるのかと思っています。最後の最後は、昨冬の大雪、そして1年半に及ぶコロナ禍がありました。これも災害級と思いますと、私の12年間においては、災害は避けて通ることができなかった、対応力を問われた大きな出来事であり、想像力を働かせながら対応してきましたが、これが万全であったかどうか、今になってみると、反省も、じくじたることも、そしてまた、よかったと思うことも重なりながら、自身で振り返っているところです。
 そして、今日の社会は、国においては、世界と約束したグリーンカーボンニュートラルの時代が来ていますし、DXが一気に進むという時代になっています。2,000や3,000の小さな市町村もその方向に進んでいく、日本の国がその方向に進んでいく、また、これに対応できるのかという対応力も市民に求められていますし、行政がその状況をどのように作っていくのかということも求められている時代、まさに厳しい時代が来ていると。厳しいというよりも、大きな変化の時代ですね。大きな変化を乗り越えていかなければならないという時代に来ているのだろうと思っています。
 SDGsに象徴されるように、国際的にも開発計画の中で、何が問われるかといえば、まさに幸せや希望というものを、皆が持って、その方向に進んでいく、そのことは正しいと、皆で共有しようという時代です。また一方では、それぞれが尊重される多様化の中で、多様化と共生していく時代でもあるということです。また、この大きな時代の変革の中で、一人一人が、また社会が、地域が、行政が変わらなければならない時代もやってきています。その、変わる時には何が必要かといえば、やはり、変わるというときの、心意気、勇気、そういうものも必要になってくる。ですから、市民一人一人も時代の変化の中で、市民の皆さんも、行政も、その変わることに対する勇気のようなものも、確実に求められてくる。そういう中で、持続可能な社会を作っていこうという我々の営みが、これから始まっていくのだろうと思っていますし、そこにはもちろん、災害を含めた安全・安心があるという状況を、これからの時代、市民と、国、また世界を通じて対応していかなければならない時代が来ているのだろうと思っています。
 地域に目を向ければ、社会としっかりとした繋がりを持ちながら、市民一人一人が居場所と出番を持つ、社会的包摂の中で暮らしていくということも、地域の中で見れば、大切なことです。高齢化が進むこの地域においては、そのことは確実に問われてくるし、そのことにどうやってみんなで対応していくかということも、大きなテーマなのだろうと思っています。
 そのような急激に変化する社会がこれからやってくるわけですが、私自身の12年は、その大きな変化の前の時代を務めさせていただきました。これからの時代は、新しい市長の下、職員と市民と、まさに先ほどお話したような、他者に対する寛容さと、自らに対する謙虚さを持ちながら、排他性のない、互いが地域コミュニティを、人と人、人と地域、地域と地域の関係をつなげていく、そのことを、本気に、当事者として居場所と出番の中で発揮していくことが必要なのだろうと思っていますので、これからの時代、厳しいとは思いますけれども、私たちが通らなければならない時代とすれば、そのことについて、市民も、また行政も果敢にチャレンジしながら対応してほしいと思っています。
 かつて、国際児童図書評議会で上皇后様がおっしゃった言葉を最後とし、私自身が務めさせてもらったことの感想にしたいと思います。その言葉は、「私たちは、複雑さに耐えて生きていきていかなければならないということを、読書が教えてくれた。人生のすべてが決して単純でないということを教えてくれた。人と人、国と国とにおいても」と。確かインドでの基調講演でお話された記憶があり、それも調べずに、思い出した中で書いてきましたけれども、最後に、複雑さの中に私たちは耐えていかなければならない。それには、自身で考え、自身の言葉で発し、そして、様々な知識を自身に蓄えていく。学びの知ではなく、文脈の知の中で我々は生きていく必要があるのだろうというふうに思った次第でありまして、昨日の夜のメモですので、間違っていることがあるかもしれませんが、ご容赦いただいて、私と皆さんとの最後の記者会見とさせていただきます。本日は大変ありがとうございました。
 これまで多くのご支援いただきながら、叱咤し、そしてまた励ましていただいたことに、心から感謝申し上げたいと思います。ありがとうございました。

(記者)
 3期12年、市長を務めてこられ、本日迎えられたこの心境、どういう感情が今の市長の胸の中にあるか、改めて教えてください。

(市長)
 何日か前から、携帯には本当に数多くメールが届いており、本当に支えられた、育ててもらったのだという思いを強くしました。
 そういう思いの中で、12年の務めが終わってよかったなと言い聞かせながらも、私事ですが、妻と2人暮らしなのですが、急に3日くらい前に入院しまして、昨日と今日は一人で過ごしましたので、最後の朝の見送りはありませんでした。しかし、近所のご夫婦が、朝何時に家を出るかも分からないのに、私の家の前に車を止めて待っていてくださり、私が迎えの車に乗り込もうとしたら、「最後だね。行ってらっしゃい。天気もよいね。」と見送ってくれたことが今日の印象的な出来事です。家族に送ってもらうことはありませんでしたが、近所の方が声を掛けてくださいましたので、先ほどのメールと含め、今日は、嬉しい一日になると感じました。
 今、思いますと、先ほど話しましたように様々なことがありましたが、このあったことで、自身が支えてもらい、育ててもらったのだと、今朝もつくづくと思いながら、感謝をして、役所に来ました。

(記者)
 今後の予定についても教えてください。

(市長)
 今後の予定は、仕事を一緒にした皆さんや同級生などが、ご苦労様会のようなものをやってくれるということですので、1週間に2回くらいはそのような会合があります。12月に入れば忘年会、そして新年会もあるかもしれませんが、少し、自身と向き合いながら、家族が先ほど話した状況にありますので、しっかりと家の中のまとめもしなければならないと思っています。そのような中でも、雪が降ったら、今年は10日や15日くらいは、スキーを滑ることができればと思っていまして、仕事のことは少し横に置きながら、今までできなかったこと、今の楽しみもそうですが、家のことも含め、できなかったことに少し取り組む必要があると思いますし、取り組まなければならないと思っているところです。

(記者)
 市長経験者の中には、スポーツ振興の団体であるとか、議会活動をされているように、直接・間接的に政治と関わっている方もいらっしゃいます。市長は、明日からは前市長となりますが、直接的あるいは間接的に市政と関わったり、提言をしたりするような予定はありますか。

(市長)
 全くありません。無責任のようですが、国、県、花角知事を含め、本当に支えていただいたという感謝の念でいっぱいで、自身にとって何ができるかといえば、地域の中で、何かお手伝いすることができるかもしれませんが、市政という観点においては、それぞれの政策で取り組んでいくわけですので、私自身が何かする、能動的にするということは考えていません。
 受動的に、話があれば、酒を飲みながらでも、また、お茶を飲みながらでも、私ならこう思うと話す機会はあるかもしれませんが、そのように話してくれる方がいるかどうか、それも分かりませんので、私自身、今のところそういう思いはありません。

(記者)
 村山市長の3期12年というのは、ぶれずにやられた行財政改革という点で、象徴される部分があるかと思います。今後、市政を引き継ぐに当たり、現市長から、次の市長に対して、もしくは職員の方に対して、しばらくはこのような状況だから、このような形で市政を運営するとよいのではとアドバイスされたことなどがありましたら教えてください。

(市長)
 幸いと言いますか、副市長の職を2年ちょっとさせていただきました。その副市長の職をさせていただいた中で、上越市の状況を学ぶことができ、それができたことによって、市長の職をスタートした時には、何が必要かということが分かっていましたし、優先順位をつけ、政策に結びついたと思っていますので、私は、今の状況をどのように把握するかということが一番大事と思っています。
 国では総務省、国土交通省、それから新潟県には本当にお世話になったと思っています。副市長という職にあったことによって繋がりができ、その繋がりを絶やすことなく、当時はあまり関係のない方であったとしても、ずっとお付き合いをさせていただいていました。結果的に、その方が省庁のトップになったということで、まさにその繋がりが太くなったという、私にとっては非常に幸運な部分も随分あったと思います。私自身、人と人の繋がりを大事な部分としていましたので、そのことで支えてもらったと思っています。
 今の上越市の情勢は、行財政改革に象徴されますが、そうではなくて他の部分も含め、どうなっているかということの把握について、私は、2年以上副市長として見ることができたので幸運だったと思っています。職員の皆さんには、これからしっかりとレクチャーなり進言しながら、上越市の取組方向を定めていってもらえばと思っているところです。

(記者)
 3期12年を振り返り、一番思い出に残った出来事を教えてください。また、次期市長への注文なり要望なりがあれば教えてください。

(市長)
 思い出に残ったということは、ちょうど巡り合わせにきたということが大きいです。例えば、よく言われるのが、北陸新幹線の開業です。ちょうど開業に立ち会うことができました。また、直江津港が、平成23年にエネルギー港湾の指定を受けましたが、それにより、INPEXの発電所が運開するということもありました。
 まさに、その時代時代の中で立ち会うことができたということについて、思い出に残ったという部分もあるかもしれませんが、冒頭お話しましたように、やはり私の中では、災害と言われるものが、平成23年の東日本大震災から始まったわけですので、災害に相当気持ちを移しながらやってきたと思っていまして、その災害の対応がどうであったかというのが、今でも、「眠れなかった」ということが相当記憶にありますので、思い出に残ったこととしますと、そういう思い出があります。
 次期市長への要望については、市長選挙は、市のリーダーを決める、政策を決めるものです。市民が選んだ政策を提案した方の方向性について、私とすぐに合致するかどうかということがありますので、これはまた市民として、新しく取り組む市長には、市民と約束したことをしっかりと実行しながら、市民の負託に応え、信頼を得てほしいと思っています。

(記者)
 3期12年務めた市長の、自身の評価はいかがですか。

(市長)
 自らのやった仕事の評価を自身ですることはおこがましいと思いますし、市長の評価は、市民がすることと思います。そして、その答えが今出るか出ないかは分かりませんが、いつかきちんと評価されますので、今、私自身が評価する立場にはないのではないかと思っています。

(記者)
 3期12年の中で、これは成し遂げたということがあれば教えてください。

(市長)
 私自身、行政経験が長かったので、副市長の職にあったとき、市町村合併をしてこれだけ広くなった人口20万人の都市が、こういう状況でいいのかという思いを強くしました。市民の信頼を得るための行政をするとすれば、財政の堅持といいますか、確保は必要ということですから、そこに手をつけ、取り組んできました。市民の皆さんからは様々な意見がありましたが、何をやるにもやはりしっかりとした行財政がなければ成り立たないという強い思いの中で、スタートしましたので、12年間で一定の成果があったのではないかと思っています。まだまだ先は不透明であり、これで十分であるというものではありませんし、行財政改革は不断に取り組んでいくものと思っていますので、ここで終わりではなく、これからもその取り組みは当然されていくだろうと思っています。

(記者)
 やり残したというものがあれば教えてください。

(市長)
 自身が掲げたことを一つ一つやってきましたが、残したと思っていることが二つあります。一つは、残したというよりも、この時代の中、国からの指示で、下水道事業を企業会計化しました。そのことによって、下水道事業会計は、非常に顕在化してきました。不足するもの、出さなければならないものがありますので、この取り組みは、市民の皆さんに直接関わることではないかもしれませんが、市の財政の中では大きなウエイトを占めてくる問題だろうと思っています。国の取り組みの指示というのは、そのような内在している問題がないかどうかを含め、下水道事業を企業経営として取り組みなさいということだったので、企業会計となって1年、2年の中ではっきりしてきたことがありますので、そのことの取り組みも必要と思います。
 もう一つは、第三セクターだと思います。第三セクターは14市町村で作ってあるわけですから、作ったものの効用、そして、利用者が大きく減ってきている状況は、時代が変われば、おのずからそうなるのかもしれません。
 最終的には、第三セクターについて、ホールディングスを作って取り組むという方向を出したのですが、それがなかなか思うようにうまくいかず、ここに来てまだそのことが残っているということですので、そのことについては、残してしまったと思っています。
 私自身が市長をさせていただくときに思ったことは、財政の健全化、第三セクターの確実なる健全化、それから土地開発公社の健全化と言いますか、処理。この三つを大きな柱にして、行政の中では、そのことをしっかりとやらないと、後々ボディブローになって効いてくるという思いを強くしていましたので、その三つは、やり遂げなければならないと思っていました。その面からすると、不断にやらなければならない行財政改革についても、一定の不断の努力はしてきたと思っています。また、土地開発公社についても、処理は終わったと思っています。三つ目の、この第三セクターについては、残念ながら私の力が及ばず、12年間でも、市民の理解を得ることもなかなか難しいですし、その施設の今後の在り様のようなものを議論すると、なかなかまとまらないというようなことで、これは残してしまったということです。この処理については、今後もお願いすることになると思っています。処理するかどうかは別にして、一定の方向の中で取り組みをしていただくことになると思っているところです。

(記者)
 先日投開票が行われた市長選挙について、中川候補対野澤候補の構図になって、結果として中川候補が約8,000票の差をつけて勝ちました。このことについての所感を聞かせてください。

(市長)
 国政の選挙と投開票が同日になりましたので、上越市における国政の選挙の状況と市政の、市長の選挙の情勢が、案外重なっていると思います。内容は分かりませんが、与党野党といった国政の選挙に準じたような戦いになったことによって、状況が類似したのではないかと思っています。そういう結果が出てきたのではないかと思っています。
 野澤候補は8,000票くらい、国政の選挙の中でも7,500くらい離れているのでしょうか。なので、重なった部分があるのではという感じがしています。票全体としてはそうですが、個々の中身がどうなっているかは分かりません。いずれしても、得票の類似性から見ると、与党野党という形の構図での選挙になったのではないかという、素人ですが、そのようなことを感じたところです。詳細については、私も分かりません。

(記者)
 今回の市長選挙における最大の論点は「人口減少」でした。両候補とも市内の人口減少が深刻であるという認識の下、「私は、人口減少に歯止めを掛けるためにこのようなことをやります」と訴える選挙戦であったと思います。市長が先ほど言われたように、例えば、上越市に北陸新幹線が開業して高速交通が整備されたり、直江津地域中心に企業の誘致が進んだりなど、設備投資が進んだという面もあると思うのですが、それにも関わらず、人口減少に歯止めが掛けられなかったということについて、どのように思っていますか。また、人口減少に歯止めを掛けることの難しさについて、実際に市政を担われた経験から、指摘できるところがあれば教えてください。

(市長)
 私は、人口減少について、何回もこのような場や市議会で話してきましたが、改めて話します。平成元年、新潟県の総合計画策定の担当であったときに、人口推計をしました。平成元年の人口推計で、人口が減少するという方向が出ました。当時の部長からは、人口減少に係る総合計画というものは基本的に無いのではないかと言われましたが、新潟県は人口減少に入るというのが推計の一つの状況でした。
 私が新潟県職員であった平成7、8年頃には、県内の出生数は2万人を超えていました。その頃、私は教育委員会にいたのですが、高校への入学生が1万9000人台になった時には、県の高校の再編をしなければならないという議論をした覚えがあります。それが平成8~10年くらいのことですから、今から考えると、20年以上前になります。もう既にその時からそのような議論をしていたのですが、今の県内における1年間の出生数は、1万4000人を切るか切らないかくらいだと思います。20年間で、もう6,000人、7,000人減っているので、平成元年からすでに予測されていたということです。
 上越市は合併して20万8000人の人口となりましたが、16年たった今は、18万人を切るか切らないかというところまで来ています。私は、日本全体が人口減少しているときに、妙高市からこちらに入ってきて、人口が増えたという議論はあまり意味がないという感じを持っていまして、確実に人口が減るということを認める中で、どういう政策を打っていくかということが大事であって、現行の人口の減少そのものを止めることは、結果的に日本全体でもできないだろうと思っています。人口が上向きになるのは、多分60年から70年、80年くらい先と思っていますので、人口減少するということをまず認めながら、認めた中でどのような政策を打っていくか、地域の活力をどのように保っていくかということが、私たちに問われているのだと思っています。
 よって、今後、市長選挙で争った二人の考え方は、私は分かりませんが、私は、人口減少を止めるということでなく、人口減少を緩和するという言葉をずっと使ってきました。緩和する中には、移住があるでしょう。また、IターンやUターンもあるでしょう。そういうものを含めながら、この人口の減少を緩和しながら地域に活力を作っていく、その施策が必要であって、人口が増えるという、ある種の考え方というのはどこかで改めながら、人口減少する中でどのようなまちづくり、地域づくり、活力のある地域を作っていくかということの議論が、私たちには必要、とりわけ上越市には必要であると思っています。人口密度が200人を切ってしまったということは、合併した市町村の中では多分全国で最少だと思います。合併した中核市における人口密度は一番下の方にあると思います。
 私は、総務省の財政課長や財政局長、事務次官とお話する機会をたくさんいただきました。可愛がってもらいましたし、面倒を見てもらいました。その中で、人口の話をしますと、合併した自治体が、人口減少によって、経営が厳しく破綻ということにならないようにという思いで、様々な支援をしてもらいました。しかし、合併しない自治体が、合併しないで頑張っているのに、そのような自治体に対してはどうなのだという議論が片方にはあるのも事実ですので、合併したことによって人口減少し、人口密度が200人を切る中核市というのは、やはり、上越市にとって、体力を削ぐ内容になっていると思いますが、市町村合併は、市民の選択でしたので、その選択をしっかりと受け止めながら、対応していく必要があると思い、12年間務めさせていただいたということです。

(記者)
 冒頭に少し振り返っておられましたが、改めて、一言で言うとすれば、どのような12年間でしたか。

(市長)
 私にとっては、青天の霹靂です。市長になることについて全く考えていなかった人間が、12年前に様々なことがあって、推されて、市民に選んでもらって市長になったということですので、12年を振り返りますと、自分の人生にとって、有り得ない事が有ったという思いを強くしています。
 市民の皆さんの力を借り、支えてもらったことによって12年間できたと思っています。その考えが、先ほど話した、スタートした時の、私のキャッチフレーズを含めて、昨日夜に思い出しました。

(記者)
 退任に当たり、今この場に立たれて名残り惜しさなどはありますか。

(市長)
 少ししんみりする気持ちになるのかと思っていましたが、天候の影響もあるのでしょうが、非常に気持ちのよい、また、今日は嬉しい日というか、多分、嬉しい一日になるのだろうと思って、今朝、家を出ました。そのとおりになっています。

(記者)
 次の市長に市政運営を託すことになりますが、村山市長としてこれからどのように見守っていきたいと思っていますか。

(市長)
 私は一市民となりますので、市政の方向が市民のためにという方に向かうことに期待し、また、願っています。市民の選択の中で選ばれた市長ですので、どうぞ自信を持って、市民の選択に応える、負託に応える、そしてまた、信頼感ある市政運営をしていただければと思いますし、職員とともに、その方向性をしっかりと定めながら活躍してほしいと心から思っています。

(記者)
 市長は、「すこやかなまち」をキャッチフレーズに市政運営を行ってきました。20年後、30年後の上越市はどのようになっていてほしいという願いはありますか。

(市長)
 私は、多分20年後30年後にはおりませんが、その頃の上越市は、まだ人口減少が進んでいく時代だろうというように推計されていますので、規模や活力が削がれることがまだあるのかという心配をしています。いずれにしても、そこに暮らす人々が幸せである、まさに健やかであることは、どこから見ても大事なことだと思っていますので、そのようなまちであってほしいと思っています。私たちが今どんなに想像力を発揮したとしても、30年後の姿を多分想像できないだろうと思いますし、そのことを今問われても、私は少し難しいと思います。しかし、あと15年経ちますと、上越市が合併して30年という時を迎えます。あと15年頑張っていれば、上越市の15年後、合併して30年の景色を見ることはできると思いますし、合併して30年という景色を見ることができれば、どういう姿になっているのかを見ることができれば、その次の10年、20年が想像できるのではないかと思います。いずれにしても、あと15年で上越市の合併30年、まちがどのように変わったのか、どのようになったのかをしっかりと見られるくらい健康で、私自身が頑張れればと思っているところです。

(記者)
 3期12年の市長、その前の県職員時代を含めると、50年という長い勤務期間であったと思います。改めて思い出されることはありますか。

(市長)
 昨日、それについても縷々自身に問うてみました。私は、昭和46年、新潟県庁に奉職しました。今年でちょうど50年という節目になります。利かん坊で、仕事ができたかできないかは分かりませんが、そういう人間を支えてくれた、そして指導してくれた上司、それから同僚、また、慕ってくれた部下、その皆さんに支えられてきた私が、この上越市に縁があって、副市長として来て、そしてまた、想像しなかった市長という職に就くことになったということから考えると、人生は様々なことがあると、自身の思うとおりには行かないなということも思いながら、県庁での生活がこの上越市においても生きていましたし、上越市における副市長の時代も市長にとって生きていました。私自身が公務員生活で学んだことのほとんどが、この12年間に様々な形で力になりましたし、問題を処理していくときには、大きな方向性を示すための知識として私の中に入っていたと思いますので、県庁生活にも感謝し、そして副市長の生活にも感謝し、そして市長の職務が全うできたのではないかと思いました。

(記者)
 平成17年に上越市が全国最多の市町村合併をした当時、村山市長はまだ市長ではありませんが、その後16年間、その大半の期間の指揮を取られてこられたのが村山市長だったと思っています。これからも人口減少が進むという中で、地域の疲弊のようなものも、さらに心配になっていくようなところもあります。この広大な地域が、人口が減る中で、市の面積が縮むということはないので、この大きな上越市は、分割でもない限り続いていきます。指揮を取ってきたリーダーとして、この市町村合併がもたらしたものを、改めてどういうふうにご覧になっているか教えてください。

(市長)
 市町村合併の時には、私は県の上越地域振興局長をしており、非常に厳しい議論をする合併時の地域事業費を配分する委員会の委員長にさせられました。その委員会の中では、相当大きな声で、委員長の否認をするような話まで出たなどの経験がありますので、私自身は、この合併に関わった人間でありませんけれども、合併の経過の中では、関わらせてもらいました。その観点で、私は、14市町村の異質の行政、異なった文化を含めて、また、その地域の風土を含めて、市民の成り立ち、生活、歴史というものの、それぞれが持っている個性、この異質なものを持っているものが、一緒になって一つのものを作ろうという選択だったと、自身の中で位置付けていました。異質の行政の合併が、どのようにしたら成功するのか、合併してよかったということについてはどうなのかという議論が多分出てくるだろうと思っていました。
 これからは、行政が何かしてくれるということではなく、行政と市民自身の関わりの中で何ができるかということを考えていくという時代に変化してきていると思います。この変化を、区に住む市民、合併前上越市に住む市民がそのことを理解し、そして自身のこととして考えながら、行政とともに歩んでいくという方向性が必要と思っています。そういう面で、合併に対する市民の思いは、どうなのか、そして、この行政に対する思いはどうなのか。合併して16年が経っても、木田に行政の中枢があって地域にないという話が出ているという状況です。合併をどうやってとらえたのかという議論が本当は出てくるのだろうと思いますので、合併の否定に繋がるのか、合併を肯定しながら、どういうものを作っていくのかという議論が、これから相当出てくると思っていますので、合併を選択した市民が、行政とどのように関わって自身は何ができるかという議論をしていく時期なのだろうと思っています。すべてが与えられて、与えてくれないから、合併はまずかったという議論ではなく、その地域の中で活躍する人たちが、自身は何ができるかということだと思います。それは、先ほど話したように、社会的包摂の社会と関わりながら、居場所と出番をきちんと自身の中に見つけながら、そして地域の中の位置付けの中で活躍していく、その活躍したことが、行政の中にも反映され、行政との互いの連携の中で事が進んでいく、そういう時代なのだろうと思っていますので、地域がその舵取りをどれくらいできるか、行政との連携がどれくらいできるかというのが、これから問われてくるのではと思っています。

(記者)
 先ほどの12年の振り返りの中で、市民に支えられた12年間であったとのことでした。具体的にどんな形で市民に支えられたかを教えてください。

(市長)
 私は、市民がどのように思っているかという市民の声をどのように聞くかということを自身の大きな役目であると思っていました。私は、行政の職員は、都合の悪いことは報告せず、良いことは報告すると思っていましたので、良いことは後でいい、悪いことについては、早く教えてほしいとずっと言ってきました。
 市長をスタートした時の対話集会を含め、地域の若い人たちはどのように、どんなことを考えているのか、地域のお年寄りはどのようなことに悩んでいるのかを、足繁く地域に入って聞くことができました。聞いたことをどのくらい行政に反映できるかは、少し別ですが、そういう思いを聞く中で、どのようにしてできるかと思っています。
 記者の皆さんの中には、この話は聞いたという方がおられるかもしれませんが、私が最初の選挙に出るときのことを今でも覚えています。ちょうど今日のような天気のよい日に、牧区の山の高いところにある農家を訪ねました。声を掛けたら、真っ暗な部屋の中でテレビがついていました。テレビがついているので、おられるのだと思って、また声を掛けるのですが、返事がないのです。では、留守なのだ、寝ているのだと思って帰ろうとしたら、「あんちゃ、待ってくんない」と言って、高齢の女性が足を引きずりながら、土間に出てきてくれたのです。土間に敷いてあるすのこに、歩けないようで膝を着きながら、這うようにして出てきてくれたので、「選挙の挨拶です。村山と言います。私によろしくお願いします」という話をしたら、その高齢の女性が、突然「あんちゃ、頼むわね」と言って、手を握ってくれたのですが、鼻水なのか涙なのかは分かりませんが、握った手にボタボタ垂れるのです。すのこの脇には、新聞紙の上にサツマイモが干してあり、まだ水に濡れたミョウガも新聞紙の上にありました。その高齢の女性しかいなかった家を出て、深呼吸したら、眼下に棚田が広がっていて、真黄色に稲穂が実っていました。その時、私は、この高齢の女性はどこから嫁に来たのかとか、連れ合いの方はどうしたのかとか、一人で仕事したのだと思ったときに、市長になったら、この話をできるかどうか分からないけど、このような話はたくさん聞こうと、このような話をたくさん聞いて、何をしてほしいのか、何を行政がしなければならないのか、高齢の女性は何を望んでいるのか、そのことだけは聞きたいと思ったのが、12年前の9月頃、秋の実りのあった時のことです。本当に天気がよくて、深呼吸しながら、ある種涙が出てくるような思いをしましたが、あの「あんちゃ、頼むわね」と手を握られ、目にした光景だけは、人生の中で、多分一生忘れないだろうと思います。
 そういう中で、私自身が、市民と向き合いながら仕事をしてきたということですので、市民の声を聞くことだけは、自身にとって大切なことと思っていました。
 例えば、高齢の女性が市に小さな店を開いているのですが、その高齢の女性は泥のついた長靴を履いて、本町に行って孫に本を買う、その母親にはエプロンを買ってくる。市で働いている高齢の女性が、家族のためにそういうことをしているということを聞くと、営みというのは、それぞれ違うかもしれませんが、その営みを私たちが感じ取りながら、行政がやるべきこと、それから市民の皆さんが頑張ること、そのことがきちんとどこかで形としてすり合えば、それはそれで大事なことと思っています。これからの時代、何でも行政がやるということには、多分ならないと思いますので、市民の思いと行政がうまく重なり合うような取り組みが必要でしょう。これからは、そういう取り組みが、進度を上げて行われればよいと思っています。
 私にとっての12年間の市長のスタートは、一生忘れることのない景色であり、そのことが私自身を12年間、様々な場面で思い出させてくれ、頑張ることができたことに繋がっていると思っています。

(記者)
 12年前、最初に市長選挙に出馬した際、「市民がど真ん中」というキャッチフレーズを掲げられて、様々な政策を描かれたと思います。その時に思い描いた12年後の上越市の姿と現在を比べ、どの程度、目指した市の姿に近付いたのか教えてください。

(市長)
 産業分野は、リーマンショックや新型コロナウイルス感染症における経済の冷えのようなものについては市の対応は出てきますが、企業の皆さんが経営の観点で取り組んでいるものです。行政の基礎的サービスである福祉や医療、介護は、行政が指導しながら、市民にそのサービスを提供していくものだろうと思っています。
 私はとりわけ、市長になった当時、高齢者、子どもに対する様々な議論があり、このことについて、一定の福祉施策を打たなければならないという議論があちらこちらにありました。上越市は、子ども施策については、多少進んでいると思っており、欠けているのは、障害者施策と思っていました。障害のある皆さんが、将来高齢化してきたときに、両親がいなくなったときに、この障害のある人をどのようにみていくのかという思いが一番強くあり、それが地域包括ケアシステムという上越版の取り組みに至るのです。
 障害のある人々が安心して自活できるような取り組みをしていくということが、市長のスタート時の、「すこやかなまち」の象徴でもあったと思っています。スタートしたときから比べると、高齢者や子どもの医療費の助成も含め、障害のある人に対するケアについては、私が想像した方向には、確実に進んできたと思っています。
 農福連携、重度の障害のある人のデイサービスや短期のショートステイなど、医療機関の協力をお願いしながらやっと実現したときには、涙が出て議会答弁ができなかったことが何回もあります。
 もう一つは、教育でした。学力の問題は横に置いても、上越市の教育の将来はどうなのか。上越教育大学という教育の専門大学がある地域にあって、教育をどのように語っていくべきなのか、教育委員会の管轄でしたが、私は、当時の教育長を含めて相当議論しました。コミュニティ・スクールについては、全国の中では上越市の規模で実施したところはありません。教育委員会との連携の中で、私がゴーサインを出したこともありますので、教育、障害のある人や子ども、それから高齢者に対するサービスについては、できる範囲のことはできたのではないかと思っています。

(記者)
 災害が多く、あるいは予想よりも早く進む少子高齢化、人口減少ということを少し差し引けば、ほぼ思い描いたとおりのまちづくりができたという考えでいると理解してよいですか。

(市長)
 はい。財政の健全化にも手を付けることができたので、今の状況では、私自身がやりたいと思ったことについては、手を付け、そして、皆さんからは、一定のご理解をいただいていると思っています。

以上

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