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現在地トップページ > 市長の部屋 > 村山市長記者会見内容(令和3年3月23日)

村山市長記者会見内容(令和3年3月23日)

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印刷用ページを表示する 掲載日:2021年4月16日更新

3月議会定例会が終了し、また年度末を迎えるに当たり、今年度の締めくくりと新年度の抱負、次期上越市長選挙に関する記者会見を開催しました。

日時:令和3年3月23日(火曜日)午前10時~午前11時

会場:市役所401会議室

市長記者会見動画

会見冒頭の市長による説明をご覧いただけます。手話通訳もあります。

令和3年3月23日開催の市長記者会見動画(外部リンク)<外部リンク>

質疑概要

(市長)
 おはようございます。年度末の様々な取材で、何かとお忙しい中、お集まりいただきまして、ありがとうございました。
 高校生の時、野球の監督が試合で整列する時、ユニフォームのしわを脇に寄せて、しっかり締めて、胸を張って、挨拶してこいというのを絶えず教えられましたけれども、今日はそんな気持ちで、ワイシャツの脇にしわを寄せてベルトをしっかり締めてまいりました。
 市議会3月定例会が閉会しまして、令和3年度予算も可決をいただきました。今年度の締めくくりと新しい年度に向けた準備を、確実に進めてまいりたいと思っています。
 さて、3月議会中ではございましたけれども、先日、私自身の今後の去就として、3期12年を区切りとさせていただくことをお話させていただきました。議会が終了した段階で、改めて感謝の気持ちを込めて、私自身の思いを皆様にお伝えしたいと思っておりましたので、本日このような場を設けさせていただきました。お集まりいただいた皆さんに心から感謝と御礼を申し上げたいと思います。
 私は2009年、平成21年11月に、市民の皆さんからご信任をいただき、市長に就任いたしました。この間、すこやかなまちづくり、人と人、人と地域、地域と地域の関係性をもう1回、合併後のまちがしっかりとすることによって、元気なまちをつくっていこうという、市政運営を基本としながら、次の時代を担う皆さん、子どもたちや孫たちに、私自身が自信を持って、また、愛情愛着を持ったこのまちを引き継いでいくために、市長としての職務に持てる力を最大限に発揮し、力を尽くしてまいりました。
 就任当時を振り返りますと、主要な財源であります地方交付税が合併から15年後に大幅に減収が見込まれること。加えて、貯金であります財政調整基金の心もとない残高など、脆弱な財政状況に強い危機感を覚えたことを今でも思い出します。また、合併によって得た、いわゆる公の施設、公共施設がなんと多いことか。これらをすべて維持管理していくことの難しさにも、悩ましいことだと思っていたところであります。
 そして何よりも、合併市町村の20万市民の一体感を醸成していくことが急がれる課題だと思っていたところでございます。
 そういう中にあって、私自身が、この市政を預かる責任あるものとして、行財政基盤の確立が不可欠であるということを捉えながらも、市民の皆さんとお約束いたしました福祉や教育、安全安心なまちづくりなど、暮らしを支える基礎的な行政サービスを確保し、また、地域振興や都市基盤整備など、将来のまちづくりに必要な政策を進めながら、財政の健全化にも最大限意を用いてきたところでございます。これらについては、長年、皆様からご協力いただきながら取組を進めてきたことで、持続可能なまちづくりに向けて一定の道筋をつけることができたものと考えているところでもあります。
 また、平成17年の全国最多の市町村合併から16年が経過いたしましたけれども、そのうちの12年間、市政を担わせていただくことができたわけであります。
 その時々に直面した様々な課題を解決しながら、新しい上越市のまちづくりに関しても、さらなる歩みを進めていくための確かな土台を築けたものと考えておりまして、一定の方向性を見出すことができたものと考えているところであります。
 今日、新型コロナウイルス感染症の終息が未だ見通せない中ではございますけれども、間もなくワクチンの接種が始まり、コロナ終息後を見据えた新しい価値観による新たなまちづくりが求められます。さらには、デジタル化による変革や脱炭素社会の実現など時代が大きく変化する時であります。
 このような世界の状況の変化の中にあって、私はここで、市長としての職務を、この上越市の舵取り役を次の方に、新たな方に託すべきものとの考えに至った次第でございます。
 そして今年は、私自身が1971年、昭和46年の就職からちょうど50年という、自分の中では節目を迎えるところでありまして、この節目に、11月の任期をもって一区切りするということも、自分の中で決めたということであります。
 今年度は11月と1月に入院し、多くの皆さんにご心配いただきましたけれども、体調不良が理由で今期限りとしたのではありません。そのことによって、退任するということになったのだろうと心配くださる方もおられると聞いておりますけれども、もともとあった胆石を除去し、そしてその手術を受けたということで、おかげさまで元気にしております。
 この3月20日でありましたけれども、本当に天気のいい日でした。70歳を超えたスキー仲間3人で、今年最後の、また最初のスキーを楽しむことができましたので、体調は全く心配もないし、市長の任務も自信を持って、これから頑張れると思っているところでございます。
 これまでの12年間、様々なことがありましたけれども、市民の皆様をはじめ、市政の動向や、私の思いなどをつぶさにお伝えくださった、ここにおられる報道機関の皆様のご理解と、またご支援があって、これまで職責を果たすことができたものと、改めて感謝と御礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。
 残された11月までの任期については、私自身、市長職の総仕上げとして、信念を曲げず、またブレずに、職員とともに職責を全うしてまいりたいと考えておりますので、引き続き皆様のご理解とご協力をお願い申し上げたいと思います。
 私からは以上であります。

(記者)
 今ほど、12年を区切りの理由をおっしゃったと思いますが、後継のご指名はされないということで、その理由と、秋の市長選への関わりや応援に関するお考え等がありましたらお願いしたいと思います。

(市長)
 皆さんの関心が次のステージにもう移っている中で、私はこうやって会見をさせてもらうのが何か申し訳ないと思っています。私自身が12年間やってきたことは、私が副市長として1年少し、この市の中に入った時に感じたことをしっかりとやらなければいけないという思いで取り組んできたところでありますので、私自身も後継ではないと思っていましたし、今の時代、そしてまた大きな変革時代に自分のやってきたことをどうかとか、この人にということは、なかなか市民の皆さんにも、私自身の中にも一つ落ちるところはありませんので、そういう面では、昨日も議会でお話しましたように、このふるさとを一層、発展させるために強い意志と意欲を持った方々が、手を挙げられ、そして、それは市民の選択の中で、次の市長になられるそれが一番いいことだと思います。
 そんな思いで今回は私自身の任を終えるということだけを皆さんに報告したいと思いますし、応援ということになりますと、どんな政策が出てきて、どういう形でこの市政を担うかということが、これからいろんなことが出てくると思いますので、その時には、私は一市民として、取り組んでいければと思っています。

(記者)
 先ほどのお話の中でも最初に就任した時に財政調整基金の残高が少なく、強い危機感を感じられたという話もされていたと思いますが、これまでの任期の中で、市長がこれまでやってきて一番の功績といいますか、自分がやってきた中でここまでできたというものがありましたらお願いします。

(市長)
 12年やってもなかなか思うようにはいかなかったなと思う部分が多くあるというのが実感であります。
 実は私が市長になった時に、取り組まなければならないと思うことが三つありました。
 一つは行財政の改革であり、先ほど言った健全性、そしてまた、合併した後の財政なり行政のしっかりとした組織を作っていく、市民との関係を作っていくということがありました。
 二つ目は、第三セクターです。これは必ずや大きな問題になると思っていまして、この第三セクターをどうやって改善していくのか、垂れ流しになるのか、それとも新しく構築しながら次のステージに進めるのか、これが2番目でした。
 三つ目は、当時200億円を超える借財を持っていました土地開発公社です。一定の方向性を見つけなければ、上越市の財政は本当に破綻してしまうだろうということで、この三つをどうしてもやらなければいけないと私は思っていました。
 この三つを手がける中で、今考えますと、この第三セクターについては、なかなか思ったように進まなかったということ、また時代が求める行政が、少しずつ変わってきているということもあったのかと思っていまして、このようなことに取り組んできたということです。取組に対する評価は、市民の皆さんから評価していただくのだと思いますので、そういう面では、市民の皆さんにお任せするしかないという立場にありますが、12年間、私自身ができることは最大限やってきたし、これについては残った任期もやっていかなければならないと思っているところであります。

(記者)
 残り任期の8か月に関しては信念を曲げず、集大成としてやられていくというお話だったと思います。なかなか十分な時間はないと思いますが、具体的な話だとかこういう気持ちでやっていきたいというものをお願いします。

(市長)
 やはり上越市は、根強い行政の職員の文化といいますか、上越市らしい職員の文化があると思います。この職員の文化がどのようにしてなってきたかということになると、個性のある首長、長い間20年も渡る首長の皆さんに仕える職員の中に、それぞれの時の職員文化というか組織文化が出てきたと思います。この組織文化というものは、私の場合もそうなのですが、確かに当時の首長にしっかりと仕えるということも大事だと思いますが、職員一人一人が、行政のプロとして、行政のあり様を自分の言葉で語っていくという職員文化を、私自身は12年間で作るつもりでした。
 それが公務員としての矜持であり、その矜持をどうやって自分の中に確立していくか、このことが大事なことだと思っていまして、今まで私自身が語ってきた、そういう面での職員のあり様といいますか、そのことを残った期間の中で、私がしっかりと職員に伝えていく、そのことが上越市の将来の発展に繋がるのだろうと思っていますので、そのことにも大きな力を注いでいければと思っています。
 職員体制がしっかりしなければ、上越市の素晴らしいトップが来てもなかなかうまく動いていかないわけですので、自分で考えて自分の言葉で語る、それが政策としてまとまっていく、それがトップの中に訴えるものがあるというような、トップと職員組織のお互いがうまく意思疎通できるような、そういう職員文化を作っていくべきだと言ってきました。12年間やってきたことを、最後にもそのことを伝えていければと思っています。
 具体的な政策は、予算も含めて、しっかりとやっていかなければならないことはもちろんでありますけれども、そのことに、最後は頑張ればと思っております。

(記者)
 今月、市長が今期限りということを表明されてから、私も可能な限り調べてみたのですが、最初の選挙の時も含めて、3期12年で辞めるということは一言もおっしゃってなかったように思います。
 昨年9月か10月の記者懇談会だったと思いますが、次期選挙への立候補の意思を問われて、自分はもうすぐ72歳になると。次を全うしたとしても76歳になって、気力・体力がどうなるのかという部分で不安があるということも若干おっしゃいました。
 先ほど、奉職50年という節目でもあるとおっしゃったのですが、退くに当たっての何か大義名分がないように感じます。病気ではない、体調の問題ではないとすれば、精神的に村山秀幸という一人の首長が次の4年間やれなくなったという、そのモチベーションが落ちたそもそもの根本原因は何なのかをご説明願います。

(市長)
 モチベーションが落ちたという意味ではなく、やはり皆さんもその年齢になると考えるかと思いますが、残った人生が仮に10年あるとすると、多分3年か4年は元気でいられるかもしれません。しかし、そのあとの3年は、多分足も痛い、腰も痛い、家から出ることもなくなってくる。そのあとの3年は、動けなくなるかどうかわかりませんけど、伏せることになるだろうと思います。10年間を見たときに、これから自分の人生をある種、まとめていくときに残った時間はどれだけあるのかというのは、私自身の中には、65歳を過ぎてからずっとありました。私も今でも勘違いするのですが、65歳から高齢者とよく言いますが、今回のワクチンもそうですが65歳以上に接種するというときに、自分はその該当だったかなというようなことも、ふと思うのです。だけど、私はもう該当しているわけで、72歳なのです。だけどまだ65歳みたいな気になっていて、職員と話しながら、「65歳の人は」というと自分を除外して考えている自分がまだいるのです。よく考えてみると、自分の人生があと10年あるとすれば、そのうちの3年4年、自分が自分のこととして頑張れる時間がどれだけ残されているのかという思いは私の中にあります。それは多分皆さんもこの年齢になると考えると思いますが、その時間を自分としてどうやって使っていくか、このことは、やはり人生の中で大事なことなのかなと思っています。
 そのときに、市長としての頑張りも、これも価値あることだと思いますけれども、私自身の中に、この3年4年をどうやって自分らしく生きるかというのも、大事なのだと行き着いたということであります。意欲がない、あるではなくて、結果的に自分自身がこれだけ支えてもらい、支援いただいた皆さんに申し訳ないと思いながらも、自分の人生というのも最後にあるという思いに至ったということです。自分自身の問題で今回、次の人に託したい、託す状況にあるとの考えに至ったということであります。

(記者)
 それは、いつ頃そういう思いに集約されたのでしょうか。

(市長)
 私も子どもたちや孫も大きくなっていますから、家族で話す機会はそんなにあるわけではありませんが、正月にも話す機会がありました。その時にはまだ元気だからと、子どもや家族は励ましてくれるわけですけれども、はっきり言えば、「お疲れさん」ということが、息子に私自身の気持ちが伝わって「お疲れさん」という言葉が出てきたときに、私の選択は間違っていないなと思ったということであります。

(記者)
 先ほど後継者指名をしないということだったのですが、しないまでも、例えば次のご自身の後継にはどういう人が、あるいはどういう政策を掲げる人がふさわしい、またはなっていただきたいというような気持ちはありますでしょうか。

(市長)
 私自身も市長にさせていただいてから、皆さんもお分かりのように、相当非難を受けて、議会にもそしてまた議員個人にも非難を受けて、政策をやっている時にあれはおかしいとか、本当に非難を受けました。しかし、そういう時にも支えてくれる人がいて、これはやらなければ駄目だと言って、議会の中にもだんだんとそういう皆さんが多くなってきたということもあって、自分の思ったことをきちんとできる、できるけれどもそれが何のためにやらなければならないかということを、きちんと説明しながら、市民とも議会でも、また皆さんとも語っていけるような対話ができる方が、次の時代を担うというのがふさわしいかと思います。
 私は対話という言葉を使いましたけれども、先ほどの公の施設の適正配置も含めて、市民の皆さんが反対する前提の中でやらなければならない仕事はいっぱいあるのです。その中で対応していくという努力が必要だと思いますし、そのときには、市民の言うことも正しい、行政の言うことも正しい、正しい中から正しいもの一つ選ぶとすれば、どの正しさを選ぶかという、こういう判断も私の中には随分ありました。この判断をすることによって、半分の皆さんからは非難を受けることが、半分の皆さんからは頑張れということがあります。
 ですから、やはりある種、勇気も要ると思いますので、勇気を持って、そしてまた、市民と対話できる、そんなトップがふさわしいという感じがしています。私自身それができたかどうかは別ですが、そう感じているところであります。

(記者)
 市長の職を駅伝のランナーに例えた首長さんがいらっしゃいます。自分が今たすきを持って走っている。次の中継点で渡したいという人、市長ご自身がこの人という特定の人を後継指名しないにしても、意中の人はいらっしゃるのですか。それとも、そういう方を4年間とかこの12年間で育ててきたという自負はお持ちなのでしょうか。

(市長)
 私は公務員だったということも含め、政治家ではないと今でも思っています。
 そんなこと言ってお叱りを受けたことも随分ありますが、そういう意味で、私自身が努めてきたというのが一つあります。
 もう一つは、今ほどおっしゃっていただいたように、バトンとして託したときに、我々はバトンを前の人に渡すのです。その時に、そのバトンを受け取ってもらわなければならないわけで、そのバトンを受け取ってくれる人がいるかどうか。
 私たちが今やっていることの評価というのは、バトンを渡す時にはこのやり方では駄目だから、青いバトンでは駄目だから赤いバトンを持って走る、そういう人も出てくると思います。
 ですから、私は今、次の皆さんにバトンを渡す時に、我々のまちが、そしてこの地域の中にいる市民の皆さんの気持ちを捉えながらやってきたけれども、このやり方では私はバトンを受け取りませんという人がたくさんいると思います。これから、自分がこの地域を守るのだと、リーダーとして頑張るのだという方が出てくると思いますが、その方がどんなバトンを持って走ってくれるかということになると、政策だとか色々なことを見聞きしながら、私は個人、一市民として考えるというのは先ほどお願いした意味であります。

(記者)
 今の質問の中にも少し含まれるかもしれませんが、一般的にその首長の任期について3期12年を一区切りとするような考え方というか、共通認識があるような感じもします。今回の市長の4選不出馬のご判断に際し、多選批判というような、長期になることの影響というか、そういったことがご判断に影響されたということはありますでしょうか。

(市長)
 現実的にはありません。というのは、5選だろうが7選だろうが選ぶのは市民であります。多選批判を誰がするかというと、選んだ市民はしないわけでありますので、多選でも、市民が選んだのであれば、それは非難されるべきことではないと思います。
 個人的に見ると、ある程度長くなるとその市政に人は飽きる。そうすると、我々一人一人が新しいものを求めるという時期も必ずやってくると思いますので、市民が新しい気持ちで選択するという、その舞台みたいなものを提示することも必要だと思います。それが、8年がいいのか12年がいいのか、16年がいいのかという議論がありますけれども、時代が変わっているわけですので、市民が新しい感覚で選んでいく場があってもいいのかと思いますし、その時には新しい人たちが、そこで競っていくことが、市民の選択の幅を広げるということになると思います。

(記者)
 先ほどの退任の理由の中に社会の変容といいますかコロナ禍もあって急速に社会も変容しているというようなお言葉もあったと思います。特に今求められている時代の要請というのはテレワークやそれに伴うデジタル化の急速な進展などと思います。一般的に年齢の高い人がそういうのが苦手だというような共通認識もあるのかもしれないですが、ご自身の年齢もあって、そういうところに判断が追いつかなくなったとか、そういった思いがあったりすることはありますか。

(市長)
 私の中でずっと言ってきたことですけれども、基礎的な行政サービス、福祉、教育、安全安心、こういうものと、価値ある投資をバランスよくやらなければいけないという時代がずっと続いてきていました。
 今、コロナという、市民、国民の安全安心という片方で、経済を立て直していくという、また同じくバランスを取っていかなければならない時代です。その時代は、私が取り組んできた時の上越市政の中での、基礎的行政サービスと価値ある未来への投資、このことのバランスを取っていくことと、今の形は両方なのです。
 これは先ほど言いましたように、両方とも正しいと思います。正しいものを、どちらかにシフトするか、それともうまく調整しながらやっていくかという、このことが今問われているということでありまして、私は自分が時代に遅れている、遅れていないというのは、確かにあるかもしれませんけども、そういう時代なのだろうと。
 その時代は、やはり一定の判断を持った人たちが次の市民をリードしていくのだろうと思っていまして、先ほどのこれから10年間はどうできるかということとあわせながら、この時には、そういうことの判断をされる人たちが、上越市のリーダーとして手を挙げ、市民がその中から選択されるということがよいのだろうと思いを致したということであります。
 デジタル化の変革であるデジタルトランスフォーメーション、この言葉さえも市民の中にどれだけ浸透するのか、我々が言葉でなくその内容で語るという時代がもう来ているわけです。バイタリティをもって、意欲とそしてまた新しい感覚を持ったリーダーが誕生することが、この上越市にとってふさわしいのではないかと思っているところです。

(記者)
 市長が先ほどおっしゃっていた行財政改革については、まさに一丁目一番地に掲げて、心血を注がれて、批判にも揺るがずやってこられたことと思っております。
 取材しても、特に財政を立て直したことについては、高く評価する声も聞かれております。一方、第三セクターについては、行財政改革の大きな柱の一つであったかと思いますが、市長ご自身も先ほどなかなかうまく進まなかったというようなお話もされました。まだ完全に決着といいますか、ある程度方向性は示されていると思いますが、具体的にどう落ち着くのかというところがまだ見えていない段階だと思います。今回の議会の中のやりとりでも、市長の言葉で、専門家のノウハウをちゃんとつぎ込んでこられたのかというような言葉ですとか、早くあり方そのものを議論すればよかったと言うような、少し反省とも受け取れるようなお言葉もあったかと思います。
 3期の任期中、これまで取り組んでこられたと思うのですが、どうしてなかなか進まなかったのかというところについては、今どう思っていらっしゃいますか。

(市長)
 25年、30年前に、今の地方創生の走りみたいなもので、それぞれの市町村が同じような施設をたくさん作った、乱立したということ。2キロ圏内ぐらいに温浴施設が三つもあるような地域があるわけであります。そういうことの中で同じような施設を運営していくということが、当時はその状況だったと思いますが、これが時代に遅れていく、そしてまた、官が作った施設ですので、時代の流れをキャッチアップしながら対応してくことがなかなか難しかったと思っています。
 そういうことからすると、民間の企業であればリニューアルをし、新しい時代の要請に応えていくというようなことですが、今もって、宿泊施設はすべて畳、お年寄りには布団では起き上がることが難しいので泊まることができないというようなことも含めて、時代が求めているものにキャッチアップすることができないまま、こういう施設がずっと続いているわけであります。
 それに、もうここへ来て25年30年近く経ったものに財を投入することについても、また躊躇する。
 しかし、市民の皆さんは、この施設を残して欲しいという話になりますけれども、ではその施設に市民の皆さん、地域の皆さんが何回利用しましたかというと、利用しない、利用することが少ないということを含めると、この施設が持っていた役割というものを評価しながらも、今日的な役割をどうやって評価していくかというのは、行政も、市民の皆さんも、そういう観点に立った議論、対話が必要なのだと思っています。これを第4次の公の施設適正配置計画の中に掲げ、共有し丁寧に対話をしながら、今日の施設としてどういう役割を果たしていくのか、果たされるべきなのか、その施設をどうやって利用し、活用していくべきなのか、こういう観点を一つの論点にしながら議論していく。その時には当然、財政的な負担についても議論していくということで、それぞれの市民の皆さんのお答えを聞くための方法をしっかり考えていく必要があります。
 ただ、なくなることに反対という皆さんと、どうやって向き合っていくか。これは皆さんも分かるようになかなか難しいことです。地域の皆さんは、なくなることに反対するのです。何でこの施設があるかということの議論をしないで、なくなることに反対するというようなことが比較的多いということからすると、我々が4次計画に出したように、丁寧に丁寧に説明して、課題を共有しながらということになるのですが、そのことをやはり実践することがなかなか難しかったというのが、私自身は現状だと思います。
 Jホールディングスを作って、一斉仕入れとか、夏と冬の職員の異動など、いろんなことを提案しました。しかしながら、それがうまく動かないという問題も他方にあり、その辺のことを含めると、本質的に内在しているものをきちんと整理しながら、地域の皆さんに、話していくということが必要なのかなと思っています。
 そのことを、なかなかテーブルに着いてもらえない、テーブルに着いても議論が分かれる、そのことで時間を要してしまったというのが、反省でありますが、これからは4次の計画ができましたので、それについて多角的に議論していく、対話をしていく、そしてまた、その説明を理解していただく努力をしていく、そんなことに取り組んでいければと思っています。

(記者)
 今、公の施設の適正配置計画と三セクをどうしていくかという方針もあると思うのですが、今市長がおっしゃったように、丁寧な話し合いや地域との対話が必要だと思うのですが、残りの市長の任期を考えると8か月ということで、非常に限られた時間しかないということになると思います。市長の任期中に、これらの問題について、一定のジャッジといいますか、結論に近いようなものをお出しされるというようなお考えはありますでしょうか。

(市長)
 第4次の公の施設の適正配置計画の中には、方向性は認めたわけですけども、これだけ子どもたちが少なくなることによって保育園や学校、地域の保育や教育はどうするかという議論で、随分変わってきました。しかし、統合された学校はそのままの数が残るわけです。時代がまさに大きく変化しているというのはそういうことも含めて、子どもが少なくなってくる、一つの小学校では適正な教育はなかなか難しい、そうすると地域で集まる。先日、針小学校の卒業式と閉校式がありましたけれども、それによって二つの小学校が空き校舎として残るわけです。そういう校舎の利用のことを考えるより先に、やはり子供たちのことを考えると統合するということが先に動くわけです。そのあと利用をどうするか。やっと決まったのが、小猿屋小学校です。有田小学校ができた時に統合した小猿屋小学校はやっと今回、施設として利用できる。浦川原区では、中保倉小学校、末広小学校も空いたままとなっています。統合する子どもの教育のことを考えた時に、残った学校をどうやって利用するかそこまで議論ができないうちに、統合するというこの速さ、スピード感もあります。
 これは三セクでも同じなのです。これからは残ったものを除却したりする財政的な負担だけでも相当な負担になるわけです。
 昨日、私のところに内閣府の審議官から電話がありました。その方は、総務省におられた時に地域の実情を話しながら本当に膝詰めで議論した方で、その後内閣府に行かれたのですが、私がその時からお願いしたのが、除却することが合併市町村にとって非常に負担になっていくのだというような話をしたことを思い出しながら、お世話になりましたということでありました。そういうように、その財源をどうやって確保していくかということも、これからは大事なことであり、これは三セクの施設にもそういう施設が出てくるかもしれません。先般、急に、三和ネイチャーリングホテル米本陣の指定管理者が受けないということになりました。あの施設をどうするかという議論もあります。
 あの施設の整備に10億円を超えていますが、25年30年経ったときに、どうやって利用していくか、温浴として民間では多分利用できないような施設になってきている。そういう議論をやはり地域にしていくことが必要だと思いますし、先ほどから言うように、地域の皆さんに理解してもらうように対話をしながら我々の実情もお話しして、地域のためにこの施設はどういう位置付けなのか、そのような議論をやはり粘り強くしていきながらまとめていく必要があるのだろうと思いますし、そのための取組は残った期間も当然しっかりとやっていかなければと思っているところです。

(記者)
 市長に就任されて12年間は、新しい上越市のスタートの時期でもあり、また、新しい時代の価値観と市民のニーズも多様化している中での大変難しい舵取り役だったと思います。市長に就任されて新しい上越市をどの方向に向かわせるかという理想像があったかと思います。その理想像に近づいているのか、達成されているのか。また、まだ任期はありますが、志半ばのこと等あればお聞かせいただけますでしょうか。

(市長)
 自分がやってきたことについては先ほどもお話しましたように、私自身が掲げた政策の中で、市民がどう評価してくれるかは市民にお任せしたいと思います。
 平成23年の3月に東日本大震災が起きました。この時は、行政が将来どうなるのか、これは本当に大きな衝撃だったと思います。私自身、もし、このまちの中にもこういうことが起こったらと思いました。私が上越地域振興局にいた時、平成16年に中越地震が起きました。長岡地域振興局長の兼務も命じられていまして、45日間、局長をしたのですが、その時の中越地震の経験が、私の公務員生活の中で本当に大きな経験だったと思います。その経験をしたからこそ、今、災害の多いこの地域においても私自身が陣頭指揮に立って、指示できるということであります。この経験は私にとってかけがえのないものでした。それを経験した次には、平成19年に中越沖地震がありました。そして、平成23年に東日本大震災があったと。地震や災害が平成16年、19年、23年、このように続いたときに、私は行政や国が、どのようにして運営していくことが大事なのだろうか、まちの作り、創造力を働かせた防災、これらのことについては、我々は本当にしっかりしないと、まちや人を守ることはできないという強い思いをしたことによって、今でもそのことが、気持ちの中にあります。今回の大雪も随分お叱りを受けましたが、私にとっては、職員を督励しながら最大限の対応ができたと思っています。ですから、これからは市の運営、地域経営においては、不慮の災害というものも頭に入れながら、財政も、市民の安全安心も、そしてまた大きな政策も打っていく必要があるのだと思っています。私が掲げたすこやかなまちは、人と人、人と地域、地域と地域の関係性をもう1回組み直しながら、合併した20万市民が上越市民として一体化した思いになることが大事だということをずっと言い続けてきたわけですので、14市町村が一つのまとまりになっていけばと思っています。質問の答えになったかどうかわかりませんが、私が掲げてきたものの中に、根底には災害というものに対処する行政の責任、自治体の責任が一番にあるということ、その根底にあったことから、先ほど言った人と人、これは自助、公助ということになりますし、人と地域、地域と地域、こういう関係性を組んでいくということは大事だと、それはまちも人もすこやかな生活ができるというのが、自分の思いの中にあって、今まで取り組んできたということであります。

(記者)
 市長は長年、県や国のキャリアの方々と関係を構築されてきて、経済界などを中心に市長が退任することによって、国や県とのパイプが細くなるのではないかと懸念する声も上がっていますが、その点はどのようにお考えになりますか。

(市長)
 そうですね。私が県職だったことによって、県政のトップである知事と、考えてみると、最初は亘さん、君さん、金子さん、平山さん、泉田さん、米山さん、花角さんとこういうふうになってくるわけであります。
 泉田さんまでは部下として、米山さんと花角さんの時には市長として、お付き合いをさせてもらったというようなことがあって、そういう面では非常にラッキーだったと思います。
 国の皆さん、とりわけ、総務省ということになりますと、私は県の地方課、今の市町村課にいた時に、当時の自治省に足繫く通い、当時の課長に大きい声で叱られ、自治省の課長に叱られたのは新潟県でお前だけだって言われたこともありましたけれども、かわいがってもらったと思います。
 それから時が経ってこの上越市に来て、全国最多の市町村合併をした市としておつき合いさせていただいたのがスタートです。14市町村の合併で相当厳しいというときでありまして、合併から15年後に地方交付税が一本算定によって大幅に減額となる危機感から、就任してからすぐに今の総務省の自治省系の皆さんとお会いしてお話させていただきました。そういう面では、おつき合いする皆さんもたくさんおられます。ですから、これは自分で作っていくものであって、またどなたが市長になったとしても、そのようにして、ドアを開けて、自分の実態を話しながら、支援なり、自分たちの提案をしていくということは大事だと思いますので、次の方についても、そういう取り組みをしていただければ、私以上の取り組みができるのではないかと思います。

(記者)
 退任のことから少し離れて市政課題に関する質問になるのですが。先日市議会で市長が答弁された豪雪の関連なのですが、広報も含めて一連の対応について検証していきたいという旨、一般質問にお答えされていました。
 もう少しその検証のイメージというか、どういう範囲、どういうことを検証して後世に残してつなげていきたいとお考えになられているのかお聞かせください。

(市長)
 そうですね。時代が変わってきて、この間はお話しませんでしたけれども、例えば、私が小さかった時、雪の深いところに住んでいました。タバコを吸わない父親からタバコを買ってこいと言われて買いに行く。そのタバコを新聞紙に包んで、朝5時半ごろ、暗いときに除雪車が走る、そのときに、除雪車の運転手さんに「ありがとう」と渡すという、それは私のところだけではなくて、3軒あとの家はお酒を出していました。そういう時代に育った私自身は、感謝の気持ちの中で除雪を受けていたのですが、今我々の市民の状態からすると、車社会になり、自分の勤めがあり、いろんなことになると、やはり受けて当然というようにして意識が市民の中で変わってきている。
 この変わってきているものに対する対応がやはりどうしても必要だと思います。今の情報の関係でお話しますと、これは例で出したと思いますけども、「私はいいものを作って売っているが、買わない人が悪い」というわけにいかないのが行政であります。ですから、我々はこれだけ情報を出しているけれども、聞かない市民が悪いとは言えないし、またそのことは、実際には、どんな伝わり方をするか分からないわけですから、本当に情報の弱者である皆さんにも行き届くような情報をどうやって出していったらいいのかと。この情報についても、ラジオを聞けばいいじゃないですかというのですけれど、私は、職員に、「大潟の積雪の話を聞きたいのに、上越どこどこ何センチって聞いているのに10分もかかってしまう。このラジオは大潟の話もしないし吉川の話もしない」とこういう話をするのです。そういうことを、地道に、うまくやるにはどうしたらいいのかという関係性を作らないと。自分のところが知りたいわけですし、自分の子どもがいるところを知りたいわけですから、そのところを知りたいのに、違うところばかり言って困るという話にならざるを得ない。これは当然だと思います。この当然を理解した時に我々はどういう形でできるか。
 そういう時には、考えてみると、新聞にどこで積雪何センチとかと書いてあると、どんな事故があったと書いてあるということの中でもって、考えていくのだと思いますが、その辺のことを除雪する事業者さんもそうですし、町内会長さんもそうですし、民生委員さんもそうですし、そういう皆さんと本当に何が必要か、具体的な例を出して地域の皆さんに話して、どうでしょうかという話をしたときに、それがだんだん絞られてきて、いやうちの町内では、そのようなことになると心配する人は、5人しかいない。ではこの5人はどうやって対応するかというふうになる。ですから、少し時間がありますので、地域地域の中でそういうことを膝詰めでやっていくことも必要。これは区の事務所が懇談会しながらやっていくときに、言われる前に我々から、「こんなことあった時にどうでしょうか」という話をしていくことが必要です。行政は案外そういうことが不得手です。私が今言ったようなことを職員に言ってもなかなか職員はそのことを相手に伝えて、それをテーマとして議論するというのは不得手な部分はあります。そういうものも含めてやっていくべきだと思っていますので、結論がどんな形でまとめていけるか分かりませんが、我々が行き届かないことを前提としながら、行き届かない場合はこういう場合が行き届かないと。このときならどうしたらいいか、地域の協力を得る必要があるし協力ももらえるかどうか、こんな話をしていく必要があるのだと思っています。これからは、そのきめ細かさというのが、情報弱者にとって大事なのかなと。
 高齢の方に76.1メガヘルツに合わせれば大丈夫ですよと言っても、合わせたってうちのことを言ってくれないという話は必ず出てきます。そういうものを我々が市民にきちんと言って、そしてそれが市民の皆さんからどんなふうにして受けてもらえるか、その時に協力してくれる人たちは誰なのか、こんなことも検証の中に入れていくということが大事だと思いますし、職員はそういうことを対応すると思っています。ラジオがあればすべてOKというわけにいかない。議場でも答えましたが、それだけでは解決しないことがたくさんあるということも承知しながら、冬が来るまでには各事務所を通じて検証していくことが必要だと思っています。

(記者)
 市民に対してのメッセージをお願いします。

(市長)
 個人的なことを言って皆さんに何か気持ちを私に寄せてくれという意味ではないのですが、自分の人生を考えると、18歳で卒業したら父親と同じ国鉄に就職することを前提にしていました。
 しかし、途中で、高校の教師になって野球の指導者になりたいということがあり、またそれを推薦してくれる監督であり、学校の先生がいました。
 そして大学を卒業して、高校の教師になろうと思っていたのですが、昭和45年、1970年の、新潟県の教育委員会で、高校の社会科の教師の採用試験はありませんでした。試験そのものがないわけですから受けられません。私は、中学の教員試験を受け、受かったけれども中学の先生になる気はなかった。合わせて、長男なので地元に帰ってこなければいけないという思いで、県庁の試験も受けました。
 これも幸いに受かりましたので、どちらかといえば、自分は教員を目指していたけれども、公務員になろうということになりました。
 そしたらまた不思議なことがあって、私に高校の教師になれと勧めてくれた先生が、当時、村上の桜ケ丘の教頭をしていまして、村上から毎週土曜日に電車に乗って帰ってくるのですが、必ず私の席を横に取ってくれて2人で直江津まで帰ってきていました。毎週そうでした。それで、半年間ぐらい、その先生は「お前は高校の先生になれ」と、「今年は高校の教員の試験があるから」と言うのです。
 そんなことで、公務員になりましたけれども、30年近くこちらへ帰ってくることなく、新潟でずっと県庁の中で、行ったり来たりして過ごしていました。54歳のときに、この上越の地域振興局長で来ました。2年すれば県庁に帰るだろうと思っていたのですが、なかなか帰してくれません。それで、そのうちに4年目に上越市の副市長にどうかという話が、当時の市長から直接私のところにありまして、副市長になりました。当時の市長は私より4つ後輩ですから、昭和27年生まれぐらいだった思います。私より若いですから、私は、市長が言えないことを言うことが私の仕事だなと思いながら、言いましたら、叩かれました。最初は、分かってくれていた市議会議員も何か月も経たないうちに、新聞で「今度来たのはとんでもない副市長」というようなことをいっぱい書いてあります。私は市長が言えないことを言うというのが仕事だと思っていましたから、あまり苦にならなかったのですが。
 そのような人間が市長になるという、市長にならざるを得ない状況が生まれたことによって、今現在12年務めさせていただきましたけども、総じて言うなら、自分の人生は、まさに今の言葉で言えば、ダイバーシティ、多様であったなと思いながら、幸せだったなというふうに思っています。この幸せの気持ちをあと7か月きちっと、市民にお返しする、皆さんに分かってもらうための仕事をできればと思っていまして、今の気持ちとしては、今日こうやってお話できたことが本当にうれしく思いますし、自分は、幸せな市長の時間を過ごさせてもらったと思っています。私自身が見た市長の景色というのは、本当に素晴らしい景色だったと思いますし、自分にとっては嬉しい時間を過ごさせてもらったというのが、今の気持ちであります。
 これまた、6か月7か月後、どんなふうにその景色が見えるのか、ちょっとまだ分かりませんが、今日こういう時間をとらせていただくことに、心から感謝申し上げ、私自身の気持ちを伝えさせていただきました。ありがとうございました。

以上

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上越市

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