本尊は「不動明王」木造。開基は和銅5年(712年) 越前国の泰澄禅師が此処に道場を建立、自ら本尊を彫刻したと伝わる。
その数年後、紀伊国の長床坊廣教という僧が院に来て、一切を修藏し寺号を萬藏坊とした。またこの頃、既に神仏混淆の思想があり、氏神社の創建は不詳であるが、大永7年(1527年) 9月16日に社殿を建立した。
永禄元年(1558年) には日照りが100日余りも続き、春日山城主上杉謙信公は降雨祈願を仰出された。時の住職別当智敬法師が、8月1日から7日間降雨祈祷を行ったところ、満願の7日に降雨があった。謙信公は大変喜ばれ、萬藏坊に「成就院」を、神明社に「雨宝尊神明宮」の称号を賜り、翌8月8日以降夫々の称号に改称した。
小字名「彼岸田」は、この時賜った彼岸行事費用充当用の田地に、また「伊勢領」は、後に伊勢皇大神宮遷宮時に新穀・棟別銭を献上したことに由来すると伝えられ、他にも「経塚」等の地名もある。
寛文2年(1662年) 12月25日、大火災のため堂宇・居宅等を焼失したが、不動明王のみが運び出され現存している。
また江戸中期には、成就院は子弟を集めて寺子屋を開設し、住職が教育に当った。住職が安永4年(1775年) に筆子佐吉に与えたお手本が、町内の民家で発見されている。明治9年には、筆子・近在の人たちが、恩師成就院十三世丸山秀道法師の徳を偲び、境内に「筆塚」を建立した。
時代は下り、昭和47年旧四辻五ヶ字は合併して四辻町となった。同年10月21日神明社は四辻町諏訪神社に合祀し、その際往古伝来の木造の御神像を遷御・安置した。