第4回世界女性会議「北京宣言・行動綱領」採択30年(北京+30)、男女雇用機会均等法成立・女性差別撤廃条約批准40年にあたり、長年、男女共同参画の取組を推進されてきた先輩たちからお話を伺いました。
ウィズじょうえつからのおたよりvol.54(2025年12月) [PDFファイル/2.45MB]に掲載したインタビュー記事のロングバージョンです。
性別にかかわらず自分らしく生きることは、少しずつ当たり前になりつつあります。
でもそれは「声を上げ、行動した人」がいたから。
今回は、第4回世界女性会議(北京会議)に参加した金井さんと、この地域で長年活動されている北京JAC・新潟 共同代表の阿部さんにお話を伺いました。

(左:阿部さん、右:金井さん)
金井さん:「結婚したら、夫の言うとおりに」と教え込まれていた時代です。当時の学校教育の現場では「夫が管理職になったら、妻は仕事を辞めることが当たり前」で、私も不本意ながら50歳で退職しました。「なぜ私が辞めなければいけないの?」という怒りと悶々とした思いが、その後の活動のエネルギーになりました。
金井さん:世界女性会議って何だろうととても興味があって、自費でも参加したいと思っていたところに市から参加者の募集があったので手をあげました。市民では私を含めて2人が参加しました。それ以前から、市の女性ボランティア養成講座や上越市女性大学に参加していたことも大きく影響したと思います。
女性ボランティア養成講座は、私が仕事を辞めて悶々としている頃に始まり参加しました。これが多岐に渡っていて講師も素晴らしい方で、とても勉強になりました。私は第1期生で、学んだことを活動につなげたいと思い、人形劇の団体を作って、赤ずきんの人形劇を保育園などで発表していました。新潟市の団体の活動を見て演目の幅を広げながら、約20年間活動しました。ボランティア活動を通じて仲間もできましたし、あの講義を1年受けたことは私にとって本当に良い経験でした。
北京会議の前年の1994年に上越市女性大学が始まったので、参加して勉強しているうちにどんどんははまり込んでいきました。

(上越市女性大学)
金井さん:期間は1週間くらいだったと思います。開会式は陸上競技場で行われて、約5万人が参加しました。ものすごく広くて、挨拶や声は聞こえますが、向こうが見えないくらいでした。期間中は北京から約50km離れたところに作られた会場でいろいろなワークショップが開催されていました。北京のホテルから毎日バスで通って、自分が参加したいワークショップに参加しました。外国の人と知り合って一緒に参加したり、同時通訳しているパネルディスカッション会場に飛び込んで参加したりしました。

(北京会議:開会式)
金井さん:「新潟女性史クラブ」の皆さんが開催していたワークショップが印象に残っています。花街(遊郭)が上越や全国のいろいろな地域にあったことを発表されていました。また、「女のスペース・にいがた」の皆さんは、活動のきっかけとなった新潟の小学生が性暴力に遭っていた事件についてのワークショップを開いていました。新潟市の人たちと違って、私たちはまだ基礎的な学びの時代だったので、すごいなと思いました。
阿部さん:私は、女のスペース・にいがたの皆さんが、北京会議のことを寸劇にして、上越でも発表されていたのを見ました。
金井さん:新潟女性史クラブの会の花街の話は、農村の貧しい娘がそういうところに行かされたというような、女性が平等でない状況についての発表でした。

(北京会議:女性NGOフォーラム北京’95・新潟)
金井さん:北京会議では、いろいろな国の人との交流を通じて、世界中の女性に対する不平等の現状を知りました。こうした女性の問題は社会に広げていかなければいけない大切な問題だと感じました。
印象に残っているのは、東ティモールから参加していた1人の女性のことです。当時の東ティモールは紛争が起きていて、「自分たちは虐げられている。無事に帰れるかわからない。帰る旅費もない。」ということで、みんなでお金を融通して渡したということがありました。その後2002年に東ティモールがインドネシアから独立したという報道を見て、虐げられていた人たちが独立できて「よかった」と思いました。
金井さん:北京会議に参加するために、市が私たちを埼玉県嵐山の女性教育会館に連れて行ってくれて、とてもよい勉強になりました。日本全国の人たちと交流することができて、今もそういう人たちが北京JACなどで活躍されています。女性の問題を通して、世界情勢などに関心を持つことができました。アフリカで行われている女子の性器切除のことを聞いたときは本当に驚きました。なぜそんなことをするのかと聞いたら、男性にとって都合の良い性交渉ができるようになるからということでした。世界でそんな野蛮なことをしていることにショックを受けました。
阿部さん:ケニアのナイロビで開催された第3回世界女性会議で、そのような話し合いがありました。リプロダクティブ・ヘルス/ライツの問題がクローズアップされて、北京会議での行動綱領にも盛り込まれました。
金井さん:今までタブーとされ、女性自身もどう生きるかということについて考えてこなかったと思います。北京会議に参加して、自分のことをしっかり考えて、自分はどうしたいかというのを考えるということが大事だということがよくわかりました。性暴力や性に関する問題、少年・少女の問題は今でも多いです。性は人権問題ということの理解はまだまだだと思います。学校や家庭で小さい頃から教育して、隅々まで理解を広めていくことも必要だと思います。
そのようなこともあって、上越市の男女共同参画基本計画を策定するとき、私はリプロダクティブ・ヘルス/ライツの部分を担当しました。花街の問題は、現代も形を変えて、風俗などで女性自身の人権問題がある状況です。昔は「夫の言うとおりにしているべき」と言われましたが、性の問題もちゃんと話し合って、相手の言いなりでなく、自分はどうしたいかを伝えるということがプロダクティブ・ヘルス/ライツの問題です。しかし、当時は計画策定の委員の間でもなかなか理解されていませんでした。日本でも、家庭のこと、嫁姑・夫婦のことなどたくさん問題がありますが、もっと世界に目を向けて「自分らしく生きる」ことを考えていかなければと感じました。

(北京会議:NGOフォーラム)
阿部さん:北京会議はジェンダー平等に向けて一気に広まるきっかけになりました。北京会議で採択された行動綱領には、女性と貧困、女性に対する暴力など12項目が示され、日本では1999年に改正男女雇用機会均等法が施行されました。北京会議に参加して刺激を受けた人たちがそれぞれの地域に戻って活動し、全国的に男女共同参画の機運が一気に高まり、上越市でもいち早く2002年に男女共同参画基本条例が制定、基本計画が策定されました。北京JACは、北京会議に参加した人たちが刺激を受けて全国各地で結成され、新潟では1996年に結成されました。
金井さん:北京会議後、仲間ができて視野が広がりました。女性大学を4期続けて受講した仲間たちは、みんな基礎的な知識を得て力がついていたので自分たちで何かやりたいと考えて、「じょうえつ女性シンポジウム」を2回開催し、記録集も作成しました。そのうちに、以前から「女性センター」が必要だと思い、先進地視察や市長に要望を届ける活動も行い、実現することができました。
やりたいことが次から次へとあって、それでいっぱいでした。障害も持っているひとたちにも関心があって、そういうサークルとも関わりがありました。障害のある人はなかなかレクリエーションが楽しめないので、デイキャンプ(昼間やるキャンプ)を開催して、火を使う、何かを作るだけがキャンプではないということを体験したりしました。人間は男女、障害の有無にかかわらず、皆平等であるということを勉強させてもらいました。
阿部さん:上越市の第1次男女共同参画基本の基本目標1には「女性の人権が確保される社会づくり」と書かれています。今なら「男女の…」と書かれるところですよね。当時、女性の権利は法律上では認められていたけれど、そのような意識はあまりなかったということです。
2024(令和6)年に女性支援新法(困難な問題を抱える女性への支援に関する法律)ができました。これは、今でも見えない女性の課題がまだまだあるということだと思います。北京会議直後に比べて停滞していると感じもしますが、もちろん進んできていて、男性の育休とか当時は考えられませんでしたが、今は国が進めていてワークライフバランスも普及してきています。ゆるやかに推進されつつあると思っています。とにかく北京会議がなかったらこれほど進まなかったでしょう。今、私は金井さんたちのあとを継いで、北京JAC・新潟に参加して活動を続けています。いくらやっても尽きないと思っています。
(北京会議:上越市の報告会と記録写真)
金井さん:女性の自立はとても大事です。私のように女性が退職させられてしまう状況はなくなったと思います。それでもまだ壁がある―当たり前ではなく取り除き改善されていくべきだと思います。
阿部さん:私は、金井さんの時代よりも少し進んで、夫が管理職になっても辞めさせられることはなくなりましたが、同じ市内では勤務できないということで、夫が市内の学校に異動したときに私は市外の学校にいくというようなことはありました。今は、もうそんなことはなく、夫婦で管理職、同一市内という時代になりました。あたりまえのことで、以前より進んだということだと思います。男性の家事・育児への参画、育休取得率の高まりなど意識は変わりつつあります。私の夫の意識も少しずつ変わってきましたが、意識は急には変わるものではないですね。
金井さん:性別が違っても障害があっても平等だという意識で活動してきました。自分の主張だけでなく、社会や世界のことに目を向けてほしいです。世界の問題を共有できるような人間に育ってほしいと思います。
阿部さん:今「困ること、気になることに声をあげ」、お互い支え合って未来を考えて活動してほしいです。私自身、80歳を過ぎてもこのように活動しているのは次の世代が住みやすい社会になればいいなというのを目指しているからです。若い人たちも先を見ながらどんな社会になってほしいかと考えながら過ごしてほしいと思っています。私たちも先輩たちの努力によって恩恵を受けてきました。今の活動が次の世代につながると思っています。
写真:上越市男女共同参画推進センター所蔵
女性の地位向上を目的とした史上最大規模の国連主催の会議(1995年)。190か国から5万人以上、日本から約6千人(上越市6人)が参加。政府間会議と並行して、5千以上ものワークショップ(NGOフォーラム)が開催され、日本でも女性運動、政府・自治体の女性政策に大きな影響を与えた。
上越市の主催で1994(平成6)年から1999(平成11)年まで6期実施。企画運営等は、公募した有志による企画・運営委員が担当し、各期テーマに沿った7~8回の講座や視察を開催。育児・教育・労働・税金・政治・介護など、あらゆる角度から女性が不利な立場で生きてきた現実を学び、男女の人権が平等に確保され、共同参画できる社会づくりを目指して参加者が一緒に考えあった。上越市女性シンポジウムの開催や上越市男女共同参画基本条例の制定など、当市における男女共同参画の推進に貢献した。
1996(平成8)年から1998(平成10)年まで計3回開催。企画運営等は、上越女性大学修了者や公募した有志による実行委員会が担当し、記念講演や分科会などを実施。金井さんは、第1回と第2回の委員長を務められたため、記事中には、インタビューのとおり「2回開催」と記載しています。
北京会議をきっかけに「北京宣言・行動綱領」の実効を目指して設立された全国ネットワークのNGO団体。北京JAC・新潟は、1996年に地域コーカスの1つとして設立され、男女共同参画の推進に取り組んでいる。