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観桜会の起源とこれまでの歩み(再展示)

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印刷用ページを表示する 掲載日:2025年10月9日更新

2025アニバーサリーイヤーロゴ(画像)

公文書センター出前展示会で観桜会をテーマとするのは、今回が3回目です。

第11回出前展示会(平成29年3・4月開催)では、「観桜会事始め」のテーマで、高田城址公園を会場にした観桜会が、どのような経緯で始まり、発展して来たのか、戦前までの経過を新聞資料や当時の地図、絵はがきなどで紹介しました。

第17回出前展示会(平成30年3・4月開催)は、「2018全国さくらシンポジウムin上越」の同時開催イベントの一つとして開催しました。第11回の展示会以降に明らかになった新たな知見を加え、戦後の観桜会の移り変わりも取り上げました。

第37回となる今回の出前展示会は、100回目を迎えた「高田城址公園 観桜会」を記念して、第17回展示会の内容をベースに、少し情報を加えて再展示することとしました。

出前展示の様子(左から)(画像) 出前展示の様子(右から)(画像) 

第37回出前展示会の様子

展示説明資料(展示パネル) [PDFファイル/1.3MB]

〔年表〕観桜会にかかわる主な出来事 [PDFファイル/253KB]

資料1「観桜会にかかわる新聞記事」(高田新聞ほか:高田図書館所蔵)

「植樹の義金、募集します」 

募金を呼び掛ける新聞記事
戦前に発行されていた「高田新聞」「高田日報」などには、観桜会関連の記事も掲載されていました。新聞記事からは、明治41年(1908年)11月1日に入営した第十三師団の兵営地(高田城址(じょうし)等)に桜の苗木が植樹された経緯や、司令部の構内や偕行社(かいこうしゃ)の庭内の花見が一般市民に開放された頃の状況、観桜会の始まりから戦後に再開されるまでの推移などを知ることができます。

高田新聞に掲載された「兵営庭内植樹義金募告」記事(画像)

明治41年(1908年)10月23日発行の「高田新聞」

その他の新聞記事 [PDFファイル/418KB]

資料2「見積書(控え)」(第十三師団植樹関係資料:公文書センター所蔵)

「植樹工事、これくらいかかります」​

明治40~42年頃の見積書
作成者名は記されていません。師団入営時に植樹にかかわっていた高田町の4つの造園業者が共同で作成した見積書である可能性が高いようです。「高田拾参(十三)師団各兵営植樹工事」の但し書きが付されていることから、師団の兵営の工事が行われた明治40年から42年(1907年~1909年)頃のものだと考えられます。当初、師団が桜768本を含む10種類の樹木、総計7,522本を植樹する予定であったことが分かります。

見積書(画像)

資料3「受(請)負書(控え)」(第十三師団植樹関係資料:公文書センター所蔵)

「植樹工事、引き受けました​」

植樹工事の請負書
当時、高田市大鋸町(おおがまち/現仲町6丁目)で造園業を営んでいた矢部安太郎が作成した請負書です。「第拾三師団司令部附属地」との但し書きがあります。当時、師団司令部付属地には、軍用馬の関連施設が置かれていました。請負書によれば、明治45年(1912年)3月30日までに桜432本、松432本、草槇(くさまき)350本の植栽を完了する条件があったことが分かります。

請負書(画像)

資料4「北日本随一桜の名所高田市(高田名勝図絵)」(公文書センター所蔵)

大正15年の観光パンフレット​

ビジュアルデザインで残る、当時の街並みと桜模様
高田市西二ノ辻町(現大町3丁目及び西城町3丁目)の鳥居元大が、大正15年(1926年)4月4日に発行した「高田名勝図絵」に収録されている絵図です。大正14年5月に第十三師団司令部に代わって歩兵第十五旅団司令部が入営した高田城址内に一際(ひときわ)多くの桜が描かれています。また、元々の花見のメッカであった寺町通り(本誓寺から高田別院)にも桜が多かったことが分かります。一方、大正14年10月に植樹されたばかりの青田川(絵図中、衛戍病院から第二小学校付近を流れる川)沿いは、幼木のため開花にいたらず、桜が描かれていません。なお、絵図に描かれた桜には、場所によって描線や色の濃淡などに変化がつけてあるように感じられます。ソメイヨシノや八重桜など、桜の種類の違いを表しているのかもしれませんが、詳細は不明です。

北日本第一の櫻の名所高田市(画像)

資料5「桜を植えた場所と本数」

師団入営直前の地図と、『高田市史』の記録から
下の図は、明治41年(1908年)4月12日に発行された「高田市街平面図」(公文書センター所蔵、宮島清氏寄贈図書)を元に、昭和33年(1958年)5月25日に発行された『高田市史』第一巻の820ページ「城跡の桜」に書かれている、桜を植えた場所と本数を示した図です。「高田市街平面図」は、第十三師団が入営した明治41年11月1日より約半年前に発行された地図で、第十三師団による造成前の地形が分かります。現代の地図と見比べてみるのも面白いかも知れません。

​​偕行社は、将校の集会所
「展示説明資料(展示パネル)」にも何度か名前が登場する「偕行社」は、将校の集会所です。第十三師団の入営後に、将校たちが新築計画を立てた建物で、この地図には描かれていませんでした。師団入営翌年の明治42年4月に、旧高田城の二の丸、現在の小林古径記念美術館の辺りの土地4,946坪について、陸軍省から30年間無償使用の許可を得て、同年5月に着工し、翌43年5月に落成しました。

桜を植えた場所と本数(画像)

資料6「戦前の観桜会の絵はがき」(公文書センター所蔵)

絵葉書は当時の重要なメディア

絵葉書が伝えた観桜会、絵葉書が記録する観桜会
大正14年(1925年)以後、昭和18年(1943年)以前に作成された観桜会の絵はがきです。大半は観光客への販売用ですが、出征兵士の家族や傷病兵に無料で配布されたものもあります。なお、十日町市出身の著名な写真家である岡田紅陽(新渡戸稲造が描かれた五千円券の裏面の逆さ富士は、岡田紅陽が撮影した「湖畔の春」をもとに描かれた)が撮影した絵はがきのシリーズ〔観光の高田〕は、カラーで発行されています。絵葉書は、当時の人々が情報を伝え合う手段でしたが、結果的に後世の私たちにも、当時の様子を伝えてくれる貴重な記録になりました。

大正14年~昭和8年(1925年~1933年)頃​

絵葉書「城址の桜」(画像) 絵葉書「偕行社内ノ夜櫻」(画像) 絵葉書「高田城址の夜桜」(画像)

左 「城址の桜」〔高田名所〕
中 「偕行社内ノ夜櫻」〔高田ハ櫻ノ名所〕
右 「高田城址の夜桜」
(3点とも大正14年~昭和8年(1925年~1933年)頃発行)「高田城址の夜桜」

昭和8年~18年(1933年~1943年)頃​​

絵葉書「高田旧城址のさくら 万朶のさくら池水に映りて北国一の名花たり」(画像) 絵葉書「妙高南葉の銀嶺も桜花に映えて」(画像) 絵葉書「春は嬉しオール持つ手に花吹雪」(画像)

左 「高田旧城址のさくら 万朶のさくら池水に映りて北国一の名花たり」
中 「妙高南葉の銀嶺も桜花に映えて」〔高田城址の桜〕
右 「春は嬉しオール持つ手に花吹雪」〔高田城址の桜〕
(3点とも昭和8年~18年(1933年~1943年)頃発行)

昭和15年~18年(1940年~1943年)頃​

絵葉書「高田城址の桜」(画像) 絵葉書「高田の雪月花」(画像) 絵葉書「人か花か 銃後自粛の観桜会の盛況」(画像)

左 「高田城址の桜」〔観光の高田〕第2集
中 「高田の雪月花」〔観光の高田〕第2集
(2点とも昭和15年(1940年)撮影)
右 「人か花か 銃後自粛の観桜会の盛況」〔出征遺家族・戦傷病将兵慰安会記念絵葉書〕
(昭和15年~18年(1940年~1943年)頃発行)​

絵葉書には発行年が書かれていないので、表面(宛名面)のフォーマットから年代を判定しました。判定にあたっては、学習院大学資料館編『絵葉書で読み解く大正時代』の「絵葉書の年代判定法」を参考にしました。

資料7「戦後の観桜会の軌跡」

「広報たかだ」「広報じょうえつ」が記録する、観桜会のあゆみ

戦局の悪化により、昭和19年(1944年)と翌20年に中止された観桜会は、昭和21年に再開されました。戦前は陸軍の入営地だった観桜会会場も、高田公園として生まれ変わり観桜会関連の施設の整備が進められました。また、戦時中の混乱などから大きく減少した桜も、行政や市民の協力のもとでその数を増やしてきました。これらの様子を伝える広報記事や写真などの資料から、戦後の観桜会の移り変わりをふり返ります。
​​
野外ステージの完成(昭和33年)

広報たかだ79号記事(画像) 広報たかだ80号記事(画像)

左 「広報たかだ」第79号 (昭和33年(1958年)3月1日発行)
右 「広報たかだ」第80号 (昭和33年(1958年)4月1日発行)

 

厚生会館(のちの厚生南会館)の完成(昭和37年)

広報たかだ127号記事(画像) 

「広報たかだ」第127号 (昭和37年(1962年)3月1日発行)ポスターにも厚生会館が描かれています。

広報たかだ128号記事(画像)

「広報たかだ」第128号 (昭和37年(1962年)4月1日発行)

 

写真に残る、懐かしい建物 (昭和40年代)

広報写真「1966年の観桜会」(画像) 広報写真「1969年の観桜会」(画像)

左 昭和41(1966)年の観桜会。奥に見える建物は、平成19年に廃止された、三角屋根が特徴的な厚生南会館です。
右 昭和44(1969)年の観桜会。当時の高田公園には動物園があり、左手奥にケージが移っています。

 

桜が「市の木」に決定 椿が「市の花」に(昭和55年)

広報じょうえつ185記事(画像)

「広報じょうえつ」第185号 (昭和55年(1980年)4月15日発行

参考「ブラッシュ式アーク灯」(国立科学博物館所蔵)

桜を照らすは電気の光(タイトルロゴ)(画像)

桜を照らすは電気の光 展示パネル [PDFファイル/486KB]

Q.大正13年のお花見の前に設置されたという「アーク灯」ってなんですか

A.アーク灯は、放電現象を利用した初期の電灯です。

​「展示説明資料(展示パネル)」の3ページにも紹介しましたが、大正13年の花見を前に、呉服町(現本町3丁目)の有志は、師団の許可を得て、偕行社の庭内と榊神社前にアーク灯を設置しました。これが今日まで続く「高田の夜桜」の起源といえます。
下の写真は、アーク灯の中でも、日本で最も多く使われたと言われる「ブラッシュ式アーク灯」です。国内に現存する2台のうち1つが、東京の国立科学博物館 地球館2階に常設展示されています。
国立科学博物館 常設展(外部リンク)<外部リンク>

写真のブラッシュアーク灯は、明治時代初期から後期に導入された、初期の「開放型アーク灯」と呼ばれるものです。大正13年の高田に設置されたアーク灯は、形が異なる「密閉型アーク灯」であったかも知れませんが、当時の灯りをイメージしてもらおうと紹介しました。下記のサイトでは、アーク灯が放電する様子が動画で見られます。
国立科学博物館 資料データベース(外部リンク)<外部リンク>

高田では、上越電気株式会社により、明治40年(1907)に電力の供給が始まりました。​
『上越市史 通史編5 近代』の「電気会社の誕生と産業の発達」には、「上越電気が設立された明治40年は、奇しくも第十三師団の設置が決まった年でもあった。設置の理由には高田に電気会社が存在したこともあげられていた。」と書かれています。電気会社の存在が第十三師団誘致の一因となり、その師団の入営を機に桜が植えられ、その桜を電気が照らしたことから「夜桜」が高田の名物となり、今日に至ります。高田の桜と電気には、その始まりから縁があったようです。​
「上越市史ラインナップ」はこちら

国立科学博物館提供写真「ブラッシュ・アーク灯」(画像)​​

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

​(写真提供:国立科学博物館)
 国立科学博物館公式ホームページ(外部リンク)<外部リンク>

このページに関するお問い合わせ先

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〒943-8601 新潟県上越市木田1-1-3電話:025-526-5111Fax:025-526-6111

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