明治7年、熊塚村岡田久蔵屋敷内に寺子屋式の学校があったのを廃し、下富川村に民家を移築し、第35番小学校附属下富川校と称したのが当校の前身である。
明治10年に稲村校を合併し、23年には四ケ所校の分場となった。27年に、下富川と本新保の両分場を合併して上雲寺に校舎を建築し、翌28年5月31日に上雲寺尋常小学校の開校式と落成式を挙行した。
その後、学制改革や市町村合併による改称があり、昭和46年には、上越市立上雲寺小学校となった。
特筆すべきは、上越地方最初の水泳プール(昭和10年竣工、幅6メートル、長さ20メートル、深さ1メートル、農業用水を引きこむ方式)を造ったことと、校庭の一隅にある老松古木に囲まれた中村公園である。
この中村公園には、明治19年の着任以来、38年間勤務され当校の基礎を固められた初代校長中村三代太郎先生の功績を讃え、区民一同が大正10年に贈った「頌徳碑」が建っている。この区民の謝恩の気持ちに応えて、中村先生は御影石の校門を寄贈した。
今、子どもたちは、毎日この校門に迎えられ、中村公園入口の国旗掲揚塔にひるがえる校名旗を仰ぎながら、元気に登校している。
池墻彌市郎は、父定四郎の長男として明治3年10月上雲寺に生まれる。
明治33年産業組合法が施行されると全国の町村に組合が誕生し、津有村でも最初は南北に設立された。
彌市郎は南部の専務理事となり「信購販利」の4種を兼営する一方、自らが実務を取り仕切り順次拡張して組合の発展に尽力した。特に村農会と提携して奨励した「津有縄」は世間の評判が高く、県の内外に広まった。
その後、従来の農会が農業会に改組されて北部との合流となったが、なお専務理事として死の直前まで職務に精励し村の振興に貢献した。
彌市郎は感情を偽らずに思ったとおり行動し、決してうわべを飾らず、修行者のようであったという。
昭和19年4月7日死去。75歳であった。
篠宮耕治は、明治26年この地に生まれた。戸野目小学校、同高等科を経て高田農学校へと進み、農業発展の夢を抱く。
高田農学校卒業後は家業の農業を手伝いながら、人力に依っていた千歯・唐箕の脱穀作業や、土臼・万石の籾すり作業を動力化することに傾注する。
大正12年、小型エンジンを用いた脱穀機が「大日本農会」の発明懸賞募集に入選。次いで土白・万石一体型の籾すり機を考案し、更に昭和4年、初めてゴムロールによる自動籾すり機を発明する。国内外から注文が殺到し、17年には戸野目から南本町に工場を移した。
終戦後も籾すり機の改良を続け、その努力が認められて昭和31年「紫綬褒章」、45年77歳の時「勲四等瑞宝章』が贈られた。
昭和54年8月20日、農業機械の改良に心血を注いだ86年の生涯を閉じた。回転の異なる二つのゴムロールを組み合わせた自動籾すり機の原理は、80年を経た現在も変わっていない。
柳沢謙は、明治40年保坂祐吉・カスの七男としてこの地に生を受けた。保坂家は「薬種屋」と呼ばれ、本家は県内屈指の大地主・保阪家である。
謙は生後間もなく、生家に近い柳沢医院の養子となったが、若くして、養父、実父母を次々と失う不幸に遭う。殊に実母は結核に苦しみ亡くなった。
医者を志して東京帝国大学医学部に入った謙は、実母の命を奪った結核の研究に没頭する。昭和6年同大学を卒業、更に結核の研究を続けるために同大学伝染病研究所の技師となり、「乾燥BCGワクチンの製造方法に関する研究」により朝日賞を受賞するなど、結核予防の研究と実践にあたった。
戦後、国立予防衛生研究所に勤務、昭和45年に同所長となり、世界保健機構(WHO) 総会日本代表を務めるなど、これらの功績が認められて昭和52年「勲二等旭日重光章」を授与された。
この間、昭和16年から母校戸野目小学校児童へのBCG接種を始め、村内外の人々を無料で診察、投薬したことは有名な話である。
結核のほか、ハンセン病、ポリオの研究も続けたが、昭和57年、心臓発作により75歳の生涯を閉じた。
「津有の郷 文化遺産めぐり」(平成26年津有地区地域づくり協議会発行)から抜粋して掲載しています。