ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

上越市

サイトマップ

背景色を変える

文字の大きさ

キーワードで探す

現在地トップページ > 組織でさがす > 公文書センター > 近世直江津今町の漁業

近世直江津今町の漁業

<外部リンク>
印刷用ページを表示する 掲載日:2016年7月25日更新

江戸時代、頸城地方の漁場は、陸地から50町(約5.4km)までの磯と、それより外側の沖に大別されていました。
磯は、根付・地付とも呼ばれ、その集落専用の漁場でしたが、沖は入会と呼ばれ、原則としては誰もが自由に操業してよい漁場でした。
直江津今町には資本力のある網元・納屋元が多く、名立浦から下宿(現柏崎市番人町)までの沖合に、多くの漁場をもっていました。

資料1「頸城郡直江津今町村鑑帳」(福永家文書:高田図書館所蔵)

延享3年(1746年)に、直江津今町の大肝煎及び大年寄により作成されたこの村鑑帳からは、当時の今町の人口やなりわいの概要を垣間見ることができます。
とりわけ、今町の漁業者数(軒数)や漁業にかかわる船数が分かる最古の資料として価値があります。

村鑑帳 [PDFファイル/859KB]

資料2「今町・出雲崎漁場出入済口証文」(公文書館準備室収集資料:公文書センター所蔵)

江戸時代の中期以降、出雲崎漁師が頸城郡及び刈羽郡沖で泊漁を行うようになってから、今町漁師などとの間で沖合出入が生じるようになりました。
今町・出雲崎とも幕府に訴えを出しますが、天保13年(1842年)3月に示談が成立しました。
その際に、証文を取り交し幕府の評定所に提出しました。
証文には、これまでの経緯や双方の言い分、示談の内容が記されています。

済口証文 [PDFファイル/171KB]

資料3「越後名寄」(公文書センター所蔵)

寺泊で漢方医をしていた丸山元純が、宝暦6年(1756年)に著した越後の百科事典ともいうべき書籍です。
多くの写本が残されていますが、本資料は、文化元年(1804年)に複写されたものです。
「海魚」の項には、当時の頸城地方で水揚げの多かったタラやシイラなど習性や漁法などが記されています。

越後名寄 [PDFファイル/181KB]

資料4「当辰年の鱪漬け入レ候場所中つけ」(公文書館準備室収集資料:公文書センター所蔵)

宝暦10年(1760年)、今町の本砂山町及び片原町・裏砂山町・坂井町の計12人の漁師は、シイラ漁を行う場所を4人の取扱人のもと、話し合いによって決めました。
漁師間で何らかのトラブルがあり、本砂山町の庄松・勘次郎・五郎兵衛の3人からの申し出により作成されたものと思われます。

当辰年のシイラ漬け入レ候場所中つけ [PDFファイル/119KB]

資料5「今町・犀浜・下宿漁場絵図」(市史編さん室収集資料:公文書センター所蔵)

明治政府は、すべての漁業者に税金を賦課するために海面図の作成を命じました。
新潟県では、明治9年(1876年)にその提出を各漁村に命じています。
当絵図には、作成年月日は記されていませんが、「頸城郡」「大区・小区」の記載があることから明治11年7月以前に作成されたものだと推定されます。
絵図の範囲は、名立境の茶屋ヶ原村から刈羽郡中浜村(現柏崎市)までで、このうち沖漁場は、今町が59か所、下宿が26か所、犀浜16か村が38か所確認できます。
これらは、江戸時代からの漁場を踏襲したものだと考えられます。

漁場絵図 [PDFファイル/1.14MB]

資料6「江戸時代の地引網漁を偲ばせる資料」

頸城地方の江戸時代の漁業の様子を示した絵や図などは、残念ながら残っていません。
ただし、大正時代に五智海岸で行われた地引網漁を撮影したと思われる絵葉書、地域は特定できませんが、昭和20年代もしくは30年代の地引網漁を撮影した写真が残されています。
いずれからも、丸木船の一種であり頸城地方や能登地方で使用されていた「どぶね」が確認できます。

絵葉書 [PDFファイル/132KB]

写真 [PDFファイル/159KB]

このページに関するお問い合わせ先

上越市

〒943-8601 新潟県上越市木田1-1-3電話:025-526-5111Fax:025-526-6111

ページの先頭へ