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直江津小学校の歴史資料が語る戦前・戦中

印刷用ページを表示する 掲載日:2018年11月16日更新

直江津小学校は、学制が公布された明治5年(1872年)に柏崎学校今町分校として創立され、上越市域では最も歴史のある小学校です。このたび、学校創立時から昭和20年までの学校資料117点を直江津小学校から公文書センターに寄贈していただきました。直江津小学校の歴史だけではなく、当時の学校教育や日本の世相を伝える資料も数多く含まれています。

資料1「昭和十九年度直江津国民学校疎開児童感想文」(直江津小学校資料:公文書センター所蔵)

本資料は、昭和19年(1944年)12月末に直江津国民学校初等科第4学年から第6学年までに在籍した疎開児童67名が疎開体験を記した作文です。その内容から、全員が集団疎開ではなく、縁故疎開した児童だったことが分かります。初等科第1学年から第3学年にも疎開児童が在籍したものと推測されますので、直江津国民学校初等科全体では、少なくとも100名を超える疎開児童がいたものと思われます。

感想文を記した67名の疎開前の住所は、東京都が45名で最も多く、次いで神奈川県14名、大阪府6名、愛知県と千葉県が各1名でした。疎開時期については、明記されていない23名分を除くと、4月が4名、7月が9名、8月が25名、9月が2名、10月と11月が各1名、12月が2名となっています。疎開した家族の形態は、父母など大人と一緒に疎開した児童が16名、一人あるいは兄弟姉妹だけで疎開した児童が51名でした。

この感想文が、どのような経緯で作成されたのかは不明ですが、疎開児童が親類や学校にどのように受け入れられたのかを垣間見ることができます。また、都市部と直江津の学校文化の違いも知ることができます。ちなみに、昭和19年から20年にかけての冬は、稀にみる豪雪の年でした。多くの疎開児童が、マントや長ぐつなしに通学することの辛さを記しています。

疎開児童感想文(写真)

 資料2「児童に伝達された詔勅(しょうちょく)」(直江津小学校資料:公文書センター所蔵)

直江津小学校に残された詔勅の中から、3点を紹介します。

1つ目は、「憲法発布勅語」です。明治22年(1889年)2月11日、明治天皇により大日本帝国憲法が発布されました。この憲法の制定により、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国になりました。しかし、天皇主権を基本原則とした憲法であり、国民の権利も大きく制約されていました。憲法発布勅語は、おそらく学校長から児童に伝えられたものと思われますが、明治41年5月に学校が火災で焼失しているため、この時の記録は残されていません。

2つ目は、「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」です。昭和6年(1931年)9月18日に始まった満州事変から日本は15年間にわたる長い戦争の時代に突入します。昭和16年12月8日、日本は、アメリカ・イギリスに対して宣戦を布告しました。直江津小学校の沿革史には、「十二月九日、第二、三限詔書奉読式並訓話」と記録されており、日本がアメリカ・イギリスに宣戦布告した翌日に、この詔書が直江津国民学校の児童に伝えられたことが分かります。

3つ目は、「大東亜戦争終結ノ詔書」です。昭和16年12月10日、大本営政府連絡会議は、連合国軍との戦いを「大東亜戦争」と呼称するとの決定を行いました。以後、日本では日中戦争も含め連合国軍との戦いをこのように呼びました。昭和20年7月26日、米・英・中3か国は、日本に対し降伏を求めるポツダム宣言を発表しました。日本政府は当初受け入れを拒みましたが、広島・長崎への原爆投下、ソ連の宣戦布告を経て、8月14日に受諾を決定しました。翌15日の正午に、大東亜戦争終結ノ詔書を録音した玉音放送がラジオで全国に伝えられました。直江津小学校の沿革史には「八月十七日、大詔奉読式後、学校長全児童ニ訓話ヲナス」と記されています。

大東亜戦争終結ノ詔書(写真)

大東亜戦争終結ノ詔書

資料3「明治時代末期の各種絵葉書」(直江津小学校資料:公文書センター所蔵)

直江津小学校には、45枚の絵葉書が綴られたアルバムが残されていました。絵葉書の中には、明治39年(1906年)・40年・41年と推定できるものが含まれています。したがって、この前後に直江津尋常小学校に勤務した学校長が収集したものではないかと思われます。今回の展示では、3種類の絵葉書を紹介します。

1つ目は、東京勧業博覧会の絵葉書です。東京勧業博覧会は、明治40年の3月20日から7月31日まで上野公園を第1会場、不忍池周辺を第2会場、帝室博物館西側を第3会場として開催されました。不忍池のイルミネーションやウォーターシュート(斜面上のレールに乗せた舟を水面に滑り落とす遊戯設備)、観覧車などが評判になり、会期中680万人が来場したといわれています。

2つ目は、函館大火の絵葉書です。函館大火は明治40年8月25日午後10時20分頃に発生し、強風と水不足により被災地域が拡大しました。26日午前9時頃にやっと鎮火しましたが、焼失家屋8,977戸、焼死者8人、負傷者1,000人にのぼったといわれています。

3つ目は、サンフランシスコ大震災の絵葉書です。サンフランシスコ大震災は明治39年4月18日の早朝に発生しました。マグニチュード7.8の揺れで多くの建物が倒壊するとともに50か所以上で火災が発生しました。当時のサンフランシスコの人口は約40万人でしたが、約500人が死亡し、22万人あまりが家を失ったといわれています。

東京勧業博覧会二号会場全景(写真)

東京勧業博覧会 二号会場全景

資料4「戦前の尋常小学校・高等小学校で使用された教科書及び副教材」(直江津小学校資料:公文書センター所蔵)

明治5年(1972年)の学制の公布により、全国で4年制の小学校が設立されましたが、明治19年に公布された小学校令により尋常小学校となりました。尋常小学校は当初4年制でしたが、明治40年に6年制に延長されました。昭和16年(1941年)の国民学校令により、尋常小学校は国民学校初等科、高等小学校は国民学校高等科に改められました。

直江津小学校には、戦前の尋常小学校・高等小学校の教科書及び副教材が残されていました。ここで紹介するのは、昭和初期のものです。このうち「書方補助手本(尋五)」は奥付に「編集兼発行者 直江津地方教員協議会」と記されており、当時の直江津町及びその周辺の町村で副教材として使用されていたものと考えられます。

尋常小学校第5学年用の書方補助手本(写真)

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