江戸時代、高田城下では町役人のトップにあった町年寄(榊原家入封後は、惣年寄)が町政の指揮をとりました。
町年寄はもともと世襲でしたが、時代の進展とともに有力町人が任命されるようになりました。
高田の開府から幕末まで町年寄(惣年寄)を務めた森家に伝わる森家五代の夫婦の肖像です。
各肖像には戒名と命日・行年(ぎょうねん=亡くなったときの年齢)が付されています。
男性は脇差を帯び、太刀をかたわらに置いており、帯刀が認められていたことを示しています。
江戸時代を通じて、高田を居城とする藩主は目まぐるしく交代します。
そのたびに、町年寄は、職務や特権などを記した書状を新しい藩主に提出しました。
宝永7年(1710)、久松松平家が伊勢国桑名から高田に入封しました。
本資料は、翌8年に当時町年寄であった小川万太夫・森三右衛門・磯野六郎右衛門が町奉行に提出した書状の控えで、町年寄の具体的な職務や特権が記されています。
資料2と同様に、新しい藩主に提出された町年寄の由緒を記した書状の控えです。
後半部分が欠落しているため、年代を特定することはできません。
「四つ角」と呼ばれた四家が、春日山城下以来、町年寄を連綿と務めてきたことが最初に記されています。
森家は、家伝来の「大五香湯(だいごこうとう)」の販売を行っていたほか、高田・新井・今町に数多くの町屋を保有していました。
松平光長が藩主の時代には、新田開発も手掛け、大道郷や大瀁郷の田地も保有していました。
さらに、今町で酒造を営んでいました。
本資料は、森光右衛門が保有する不動産等を書き上げたものですが、記載された内容から正徳2年(1712)以後に作成されたものだと思われます。
居家家屋敷並町々控家其外懸持地方今町表酒造一件 [PDFファイル/329KB]
天明9年(1789)年、幕府の巡検使が来高した際に、森家は呉服町の屋敷を宿舎として提供しました。
本資料は、その際に作成された森家の平面図を翻刻したものです。
呉服町の大通りに面した東側には、雁木と入口、母屋とは異なる空間が設けられました。
一方、儀明川に通じる通りのある南側には雁木はなく、母屋から完全に切り離された長屋(借家)が設けられました。
また、母屋には、多くの部屋が設けられたほか、庶民の家にはない湯殿や茶室もありました。