高田公園(高田城址)を会場にした観桜会は今年で92回目となります。この観桜会は、どのような経緯で始まり、発展してきたのでしょうか。戦前までの経過を新聞資料や当時の地図、絵はがきなどで紹介します。
明治41年(1908年)11月1日に入営した第十三師団の兵営地(高田城址等)に桜の苗木が植樹された経緯や、司令部の構内や偕行社の庭内の花見が一般市民に開放された頃の状況、観桜会の始まりやその後の推移などを伝える新聞記事です。新聞の劣化が進んでいるため、現物ではなく、マイクロフィルムから翻刻したものを展示しています。
作成者名は記されていません。師団入営時に植樹にかかわっていた高田町の4つの造園業者が共同で作成した見積書である可能性が高いようです。「高田拾参(十三)師団各兵営植樹工事」の但し書きが付されていることから、師団の兵営の工事が行われた明治40年から42年(1907年~1909年)頃のものだと考えられます。当初、師団が桜768本を含む10種類の樹木、総計7,522本を植樹する予定であったことが分かります。
当時、高田市大鋸町(おおがまち、現仲町6丁目)で造園業を営んでいた矢部安太郎が作成した請負書です。「第拾三師団司令部付属地」との但し書きがありますが、具体的な植樹場所は不明です。請負書では、明治45年(1912年)3月30日までに桜432本(資料中の「三」は単価30銭を表す)、松432本、草槇(くさまき)350本の植樹を完了する条件があったことが分かります。
高田市茶町(現本町2丁目)の高橋書店が、明治45年(1912年)6月1日に発行したものです。高田城址に造成された第十三師団・歩兵第二十六旅団・高田連隊区の各司令部、騎兵第十七連隊、その外部に配置された野砲兵第十九連隊・輜重(しちょう)兵第十三大隊・歩兵第五十八連隊、軍関係施設の高田衛戍(えいじゅ)病院・陸軍練兵場など、第十三師団の入営により軍都となった新高田町(高田町と高城村が明治41年11月1日に合併して発足)の景観を一望することできます。
高田市西二ノ辻町(現大町3丁目及び西城町3丁目)の鳥居元大が、大正15年(1926)4月1日に発行した「高田名勝図絵」に収録されている絵図です。大正14年5月に第十三師団司令部に代わって歩兵第十五旅団司令部が入営した高田城址内にひときわ多くの桜が描かれています。また、元々の花見のメッカであった寺町通り(本誓寺~高田別院)にも桜が多かったことが分かります。一方、大正14年10月に植樹されたばかりの青田川(絵図中、衛地戍病院~第二小学校付近を流れる川)沿いは、幼木のため開花にいたらず、桜が描かれていません。なお、絵図に描かれた桜には、場所によって描線や色の濃淡などに差異があるように感じられます。吉野桜や八重桜など、桜の種類の違いを表しているのかもしれませんが、詳細は不明です。
大正14年(1925年)以後、昭和18年(1943年)以前に作成された観桜会の絵はがきです。大半は観光客への販売用ですが、出征兵士の家族や傷病兵に無料で配布されたものもあります。なお、十日町市出身の著名な写真家である岡田紅陽(新渡戸稲造が描かれた五千円券の裏面の逆さ富士は、岡田紅陽が撮影した「湖畔の春」をもとに描かれた)が撮影した絵はがきのシリーズ(観光の高田)は、カラーで発行されています。
昭和15年(1940年)4月22日、岡田紅陽撮影