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江戸時代に発生した大火:高田城下編

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印刷用ページを表示する 掲載日:2017年9月1日更新

江戸時代、現在の上越市域では、類焼数100軒を超える大火が16回発生しました。今回の出前展示会では、町人の住んでいた町方(まちかた)、武士の住んでいた家中(かちゅう)、高田城内、高田寺町を含めた高田城下に対象地域を限定しています。そして、大火に至った原因、大火からの復旧・復興の経過、高田城下の防火・消火体制の概要などを伝える資料を展示しています。

展示説明資料 [PDFファイル/811KB]

資料1「町奉行所からの触書(ふれがき)」(清水広博家文書:公文書センター)

本資料は、町奉行所から出された通達の控えです。高田城下では、強風の影響を受けて春にしばしば火事が起きました。このため町奉行所は、雪消え後の強風に備え、火の用心に努めるよう、たびたび通達を出しています。通達が指す強風と同一のものかは不明ですが、「訂正頸城郡誌稿」上巻によれば、高田城下では例年5月頃に北西から強風が吹き、これを「難波(なんば)おろし」あるいは「幟(のぼり)風」と呼んでいたと記しています。

町奉行所からの触書(画像)

資料2「伊勢町火事大火ニ及ひし事」(鮒井雑記六:公文書センター所蔵)

筆者は高田藩の中級の武士であった竹尾民右衛門です。本資料には、文政8年(1825年)の大火の出火から鎮火までの様子が、詳細に記されています。この大火で民右衛門の屋敷も焼失したため、武士仲間の長谷川八十吉の座敷一間を借り、一家9人で身を寄せていることも記されています。

伊勢町火事大火ニ及ひし事(画像)

資料3「高田町火災絵図」(榊原家文書:高田図書館所蔵)

元々は、呉服町の四つ角の町年寄(町政を司る町役人のトップ)森家が作成した文政8年(1825年)の大火の記録書です。縦100センチメートル・横210センチメートルのもので(原本が大きいため、本展示会では翻刻したものを展示しています)、町方の類焼箇所を朱書きで地図に表しています。武家地の類焼箇所は意図的に地図に描かれていませんが、その代わりに類焼した武士の氏名などが列記されています。このほか、藩が行った救済措置や延宝4年(1676年)の大火の覚書(おぼえがき)も記されています。

高田町火災絵図(画像)

資料4「出火之節火消人足詰所書記(かきしるし)」(榊原家文書:高田図書館所蔵)

本資料も町年寄森家が作成したものです。いずれも町奉行所から出された通達を書き留めたもので、榊原家入封後の各町への火消人足の割り当てのほか、消火や防火にかかわる注意事項が記されています。

出火之節火消人足詰所書記(画像)

資料5「覚(各町火消道具)」(町年寄森家文書:公文書センター所蔵)

町年寄森家に伝来した資料です。各町に割り当てられた火消人足の数は、「火札□□枚」と表記されていますが、2・3町のまとめ書きも見受けられます。覚には、各町で保有する火消道具も記されています。はしご・水篭(かご)・水桶(おけ)・かけや・大のこぎり・(竹)かぎ・箕(みの)などのほか、「わらた」「えんざ」など用途がはっきりしないものもあります。とりわけ興味をひくのは、纏(まとい)や提灯(ちょうちん)に付けられた各町の纏印です。碇(いかり)や亀・ひしゃく・うろこ・井桁(いげた:井戸の縁を図案化したもの)など、水に関連する纏印は縁起担(かつ)ぎですが、そのほかの纏印には、どのようないわれがあるのか興味がわいてきます。

覚(各町火消道具)(画像)

資料6「高田町出火一件留(とめ)」(荒町水谷家文書:公文書センター所蔵)

大肝煎(おおぎもいり)を務めていた荒町村の水谷与右衛門が、文政8年(1825年)の大火について書き留めたものです。資料2と同様に、出火から鎮火までの様子が記されています。また、在方から差し出した灰片付人足の負担軽減にかかわる交渉の経緯、藩有林からの建築資材の切り出しについても記されています。特に、他の古文書には見られない高田城下の復旧・復興の経過の記録は、貴重なものだといえます。

高田町出火一件留(画像)

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