戊辰戦争は、鳥羽・伏見の戦いから箱館戦争までの一連の戦争を指しますが、このうち越後国内の戦いを北越戊辰戦争と呼びます。北越戊辰戦争で、高田藩は新政府軍の先鋒として戦いました。また、高田には新政府軍の本営も設置され、高田藩内及びその周辺の村々はいやおうなく戦争に協力させられ、大きな負担を強いられました。なお、日本スキー発祥の地である金谷山には、この戦争に由来する通称「官軍墓地」と「会津墓地」も残されています。
鳥羽・伏見の戦いが終わると、新政府は、各藩に新政府に協力するかどうかを問う勅書を出しました。慶応4年(1868年)2月3日に、北陸道鎮撫(ちんぶ)総督から高田藩にも勅書が届きました。高田藩では、事前に「天皇への忠勤を誓い、併せて慶喜の赦免(しゃめん)を要請する」ことを決定しており、その旨を請書に記して回答しました。
勅書に対する高田藩の回答(御請書)
太政官日誌は、新政府が慶応4(1868年)年2月に発行を開始した政令記録で、後年、「官報」がこれに代わります。同年5月に発行された「太政官日誌十八」には、「高田藩へ御達」が掲載されています。旧幕府軍の古屋隊を通過させたことで、高田藩は新政府から詰責され重役を上京させることを命じられていました。しかし、人足や物資などの提供、開戦当初の戦功により、重役の上京が免除されたことが記されています。
金谷山麓の南東部(字稲干場)にある通称「官軍墓地」には、薩長を中心とした北越戊辰戦争の戦死者が戦争直後から埋葬されました。しかし、墓地内には「山稼(やまかせぎ)道、儀明村・湯谷村通路」がありました。「甚(はなは)だ不都合」という理由で、戦死者の埋葬も担当したと思われる薩摩藩の大小荷駄方(にだがた)(兵糧・武器の輸送、後方支援などを担当)は、従来の道をつぶし、新たに墓地を迂回(うかい)する道を開削する計画を立てました。戦争が終結し同役が高田を去るためか、大貫村の庄屋を訪れ、その後の高田藩との交渉を依頼しました。
北越戊辰戦争が始まると、新政府軍の兵士が消費する味噌や漬物が大量に必要になりました。高田藩は、藩内の民衆にこれらの提供を命じますが、この場合には伝票が発給され、官軍会計所で換金できたようです。高田藩では、これとは別に直江津今町の「苗字御免」の富裕者に対して、味噌と漬物の無償提供を依頼しています。おそらく高田町の富裕者に対しても、同様の依頼があったものと思われます。
慶応4年2月(1868年)、頸城郡内にあった旧幕府領は、旧幕府の指示で高田藩の預地になっていましたが、新政府軍の到来とともに「天朝御料」といわれる新政府の直轄地になりました。資料に記されているように、天朝御料でも高田藩同様に、兵糧米や味噌、漬物、梅干し、わらじの徴発が行われました。また、新政府軍に帯同して大砲や弾薬の運搬、陣地づくりや炊き出しなどに従事する夫人足(ぶにんそく)も徴用されました。
大正6年(1917年)6月17日、金谷山の招魂社(通称「官軍墓地」内)で、「戊辰戦役(せんえき)戦没者五十年祭及び西南戦役戦没者四十年祭」が行われました。旧高田藩主榊原政敬子爵の代理・政和氏(跡継ぎ)をはじめ陸軍第十三師団の関係者など多くの関係者が参列しました。この日を前に、高田新聞は「想起す五十年前 高田藩と戊辰役」、高田日報は「五十年の夢の跡 戊辰役の憶出(おもいで)」のタイトルで、当事者の証言も組み入れた特集記事を掲載しました。
高田新聞「想起す五十年前 高田藩と戊辰役」(大正6年6月14日発行)