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松尾芭蕉が上越市域に残した足跡

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印刷用ページを表示する 掲載日:2022年3月31日更新

元禄2年(1689年)に「おくのほそ道」の旅に出た松尾芭蕉は、直江津今町で2泊、高田城下で3泊しました。ちなみに、芭蕉は、越後国内では村上で2泊したのを除くと他の箇所では1泊しかしていません。また、芭蕉が地元の人々と俳諧を行ったのも、越後国内では直江津今町と高田城下だけでした。今回の展示会では、芭蕉が上越市域に残した足跡と芭蕉の没後に建立された句碑のいわれについて、古文書等の歴史資料で紹介します。

展示説明資料 [PDFファイル/516KB]

資料1「おくのほそ道」(「清水廣博関係文書」:公文書センター所蔵)

「おくのほそ道」は、元禄2年(1689年)の東北・越後・北陸をめぐる旅を素材にした紀行文です。俳諧と格調の高い名文で構成されていますが、芭蕉が創作した文学作品であると考えられています。同書が完成したのは元禄7年の初夏で、能書家の素龍(そりゅう)が清書したものを芭蕉は亡くなるまで私蔵しました。芭蕉の没後(元禄7年10月12日)は、遺言により門人の去来(きょらい)に譲られました。同書は、元禄12年に京都の井筒屋により出版され、世に知られるようになりました。今回、展示した資料は、印刷されたものではなく筆写されたものです。後書きには「今去来が本を以て模写する者(もの)也」と記されています。

おくのほそ道(画像)

資料2「曽良奥の細道随行日記・附(つけたり)元禄四年日記」(公文書センター収集典籍)

「曽良奥の細道随行日記」は、元禄2年(1689年)の「おくのほそ道」の旅に同行した門人の河合曽良が、旅の様子を記録したものです。曽良が亡くなる際には、芭蕉の門人兼後援者であった杉山杉風(さんぷう)に預けられていました。曽良の没後、曽良の縁者に届けられ、以後、幾人もの収集家の手に渡りました。昭和13年(1938年)、静岡県伊東町の医師で俳人の山本安三郎は、同じく伊東町の実業家斎藤幾太が随行日記を所持しているのを知り、翻刻・出版の許可を得て、昭和18年に「曽良奥の細道随行日記・附(つけたり)元禄四年日記」と題して出版しました。同書には、「奥の細道俳諧書留」等も収録されています。本資料は、昭和19年に増刷されたもので、夏目漱石の主治医を務め、漱石の没後に漱石忌句会を主宰した森成麟造(もりなりりんぞう)が購入したものです。

随行日記(画像)

資料3「乍恐以書付奉願上候(おそれながらかきつけをもってねがいあげたてまつりそうろう)」(「榊原家文書」:高田図書館所蔵)

芭蕉が越後を訪れてから117年後の文化3年(1806年)10月、大貫(おおぬき)村の医王寺(いおうじ)の住職は、同寺境内の薬師堂の北側に芭蕉塚を建立したいと奉行所に願い出ています。芭蕉塚とは、芭蕉の句碑のことですが、元禄2年(1689年)7月9日に高田の寄大工(よりだいく)町の医師細川春庵方で開かれた俳諧での芭蕉の発句「薬欄(やくらん)にいづれの花をくさ枕」が刻まれました。後年、この句碑は文字が摩滅し、また草むらの中に埋もれてしまいました。昭和2年(1927年)の夏に、金谷楼(かなやろう・対米館の前身)の主人が句碑を修復しました。その際に、薬師堂の向かいの金谷楼庭内に移築されたものと思われます。

乍恐以書付奉願上候(画像)

資料4「越後国国分寺五智境内之図・附(つけたり)近隣名所旧跡」(公文書センター収集資料)

元禄2年(1689年)7月11日、高田を立った芭蕉は加賀街道を通って、五智国分寺と居多(こた)神社を参詣しました。曽良は20代の頃、神官になるために国学を学び、また地理学も習得したと伝えられています。五智国分寺と居多神社を訪れたのは曽良の勧めによるものだと考えられます。さて、「五智詣(もう)で」という言葉が伝えられているように、親鸞(しんらん)の旧跡が多い五智国分寺及びその周辺の寺社には、江戸時代、信州などの遠方からも多くの人々が訪れ、明治時代になってもにぎわっていました。本資料は、明治32年(1899年)6月に作成された五智国分寺及びその周辺の案内図です。なお、資料中の解説文に登場する「見真大師(けんしんだいし)」は、明治政府が追贈した親鸞の諡(おくりな)です。また、解説文は、居多神社が山崩れにより明治11年に現在地に遷座されたと伝えています(「明治16年神社明細帳」には、慶応3年に「社地脱落」、明治12年5月に「社殿造営遷座」とある)。

越後国国分寺五智境内之図・附近隣名所旧跡(画像)

資料5「芭蕉の旅及び句碑の関連記事」(高田図書館/公文書センター所蔵)

昭和2年(1927年)8月に発行された高田新聞は、文化3年(1806年)頃に金谷山(かなやさん)の医王寺境内に立てられた芭蕉の句碑が再建されることを伝えています。同年9月、このことに関連して、文人市長と称された川合直次(なおじ)高田市長は、高田日報・高田新聞の両新聞社に「芭蕉と高田 金谷山上の句碑」と題した寄稿を行っています。また、戦後に発行された「広報たかだ」及び「広報じょうえつ」は、上越市域での芭蕉の旅の様子や市域各所に残る芭蕉の句碑建立のいわれなどについて、詳しく伝えています。

昭和2年8月18日発行の高田新聞(画像)

昭和2年(1927年)8月18日発行の高田新聞

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〒943-8601 新潟県上越市木田1-1-3電話:025-526-5111Fax:025-526-6111

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