2019年4月30日をもって「平成」時代が終り、5月1日から新たな時代が幕を開けます。そこで、今回の展示会では、幕末以降、改元がどのように行われ、また人々にどのように受け止められてきたのかなどについて、地域に残る古文書等の歴史資料を用いて紹介します。
「安政」は1854年11月27日に始まり、1860年3月18日に「万延」に改元されました。江戸時代、幕府は朝廷から改元の連絡を受けると、江戸城に大名や幕臣を集めて改元の詔の内容を伝えました。本資料は、榊原家の家臣であった庄田家に伝来したものです。おそらく、幕府から配布された詔を筆写したものと思われます。詔には、米・蘭・露・英・仏5か国との条約締結による外国人の来日(安政5年)、江戸城本丸御殿の焼失(安政6年)、コレラの流行(安政5年~7年)が、改元の理由として記されています。なお、末尾の日付は「万延元年三月十八日(新暦4月8日)」と記されていますが、これは朝廷から幕府に詔が提出された期日を示しています。
本資料は、新長者原村の庄屋を務めた吉田家の「御用留(どめ)」に書き留められていたものです。「安政」から「万延」への改元の情報を幕府から伝えられた高田藩は、「万延元年(1860年)閏(うるう)三月十一日(新暦5月1日)」に領(りょう)奉行所を通じて在方(ざいかた)の村々に触れ回ったことが記されています。さらに、「当閏三月朔日(ついたち、新暦4月21日)改元仰せ出でられ候条(じょう)」とも記されています。江戸時代は、幕府が大名や幕臣に改元を告げた日が改元の施行日となりましたが、その日が、「閏三月朔日」だったということが分かります。
表紙には、「年号合(みたて)数望(すもう)」とも書かれています。元号の期間の長短を相撲の番付表に見立てて配列したもので、東の大関には約34年間続いた「応永(1394年7月5日~1428年4月27日)」、西の大関には約24年間続いた「延暦(782年8月19日~806年5月18日)」が選ばれています。大阪の船場今橋1丁目で和算塾を開いていた福田金塘(きんとう、ほかにも直七郎、嘉当、復、美濃正、徳本、貫通斎の名をもつ)が監修して、安政2年(1855年)に出版したものです。但書には、かつて「年号撰」の名前で出版したものの、1万枚刷ったところ版木が摩滅したため、校正増補したことが記されており、人々の需要がかなりあったことがうかがえます。
太政官日誌は、新政府が慶応4年(1868年)2月に発行を開始した政令記録で、後年、「官報」がこれに代わります。明治元年(1868年)9月に発行された「太政官日誌八十一」には、「九月八日御布告写(うつし)」と「改元詔(みことのり)」が掲載されています。いずれも「慶応四年を改め明治元年と為す」こと、「一世一元」に改めることを伝えています。なお、明治改元以前も、改元に当たっては恩赦(おんしゃ)が実施されてきました。太政官日誌は、詔に続けて恩赦の内容を記しています。
「九月八日御布告写」
日本の元号に用いられた文字の多くは、四書(大学・中庸・論語・孟子)五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)などの中国の古典から選ばれてきました。「明治」と「大正」は「易経」、「昭和」は「書経」、「平成」は「書経」と「春秋左氏伝(さしでん)」・「史記」に由来していることは有名です。近・現代の元号の語源が記された書物を展示するとともに、これらの元号に込められた意味を紹介します。
「平成」の語源が記されている「春秋左氏伝」
戦前に発行された高田新聞及び高田日報は、「大正」「昭和」の改元の詔書を掲載するとともに、元号の出典や元号に込められた意味などについて解説しています。江戸時代までは庶民にとってあまり馴染みのない元号でしたが、一世一元となった明治以降は時代を象徴する名称となり、元号が人々にとって思い入れの深いものになったことを記事は伝えています。江戸時代までは、天皇が崩御すると生前の業績にちなんだ追号がおくられていました。明治以降は、元号が天皇と切っても切れない関係となり追号となったことも記事は伝えています。
大正元年(1912年)8月14日発行の「高田日報」