日本の学校給食は、明治22年(1889年)に、山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校で始まったとされています。国の制度によるものではなく、学校が貧困児童に対する就学奨励のために行った慈善事業でした。メニューは「おにぎり、塩鮭、菜の漬物」等といった簡素なものでした。
今年は、忠愛小学校による初めての学校給食から数えて、ちょうど130年目に当たります。今回は、日本の学校給食の移り変わりを、新潟県や上越市の動きも含めて振り返ってみましょう。
昭和7年(1932年)、国は国庫から交付金を支出し、学校給食の実施を奨励しました。これが、国が学校給食に実を伴う関与をした最初です。県は、この交付金(16,703円)を市町村を経由して各校に配当し、10月1日から給食を実施しました。
このときに県が各校に配布した「学校給食臨時施設方法要項」には、
などの記述があり、教育的な配慮や、今の地産地消・食育につながる考え方も方針として示されている点は特筆すべき点です。
この資料は、昭和33年(1958年)5月、直江津市立保倉中学校の後援会とPTAが市に対し、給食実施費充当のために15万円の寄付を願い出たものです。現在も学校の後援会等が学校に物品等を寄付するために、その採納を市に申請することはよくありますが、給食実施費として現金を寄付している点が興味深いところです。同時期、保倉中学校区の上吉野小学校も6万円の寄付を願い出ており、いずれも採納されています。(昭和36年、直江津小学校ではPTAが調理用重油バーナー一式を寄付した文書も残っています。)
保倉中学校は、同年9月から完全給食が始まりますが、その円滑な運用を期待しての寄付だったのかもしれません。
一方、上吉野小学校は、同年4月からミルク給食が始まりましたが、中学校は9月から完全給食なので、このままでは兄弟で給食の形態が異なる家庭もあり、小学校も完全給食化を願ったものでしょう。それが功を奏したかは不詳ですが、翌年度途中から上吉野小学校も完全給食が始まりました。
学校には樹木が多くあり、風で倒れたり立ち枯れしたりすることが今もよくあります。資料の高士小学校では、昭和37年(1962年)に、倒木を給食調理用の薪として処分したいと市に伺いを立てています。多くの学校が給食費とは別に薪代を児童から集めざるを得なかった状況の中で、少しでも負担を減らそうとしたものと考えられます。同時期に、稲田小・高志小・南本町小・東本町小・城南中・飯小等が同様の伺いを立てています。
市は木材としての価値がある場合には各材木店に見積もりを出させ、最高値の業者に払い下げ、換金できない場合に給食用の燃料にすることを許可しています。(城南中学校の約13mの杉は、3,500円で材木店に払い下げられています。)
昭和33年(1958年)から完全給食となった北諏訪小学校では、給食調理員2名のうち、1名はPTAで雇用し、1名は保護者が順番で奉仕していました。ところが昭和36年から、PTA雇用1人分は公費支弁となったので、翌昭和37年4月からは衛生面、効率面、労働的負担感に配慮して保護者奉仕を止め、そのかわり給食費を月額20円増額して420円にすることで調理員を月額平均6千円で雇用することにしました。
しかし、給食費の増額のみならず、薪代年180円、パン輸送費(北諏訪・小泉・上吉野・小猿屋の4小学校と保倉中学校は市の中心地から離れているため、他の学校では必要のないパンの輸送費も負担しなければなりませんでした)の負担が重く、兄弟が在学していれば尚更でした。一方で、栄養を考えたら寧ろ増額しなければならない本来の給食費月額400円から給料等をねん出するは本末転倒であることから、もう1名も公費雇用とするよう陳情することになりました。同時期に、同じ理由で、保倉中学校からも陳情が上げられています。
なお、本陳情については、職員の配置転換によって善処解決可能との見通しから、不採択となりました(ただし、これとは別に陳情したパンの輸送費補助については採択されたようです)。
当初、直江津市における学校給食の形態は様々でした。そこで、学校差の解消等を目的に学校給食センターの建設が始まり、昭和42年(1967年)12月に直江津中学校の南に隣接する形で完成しました。場所は、効率的に配送できるよう関係学校の中心部に位置するとともに、当時の市内中学生総数の半数を擁する直江津中学校への輸送コストを軽減することが重視して決められました(第2候補地は「御館橋付近」でした)。そして、翌43年2月11日に開所式が行われ、資料はその際に配布されたパンフレットです。
これによれば、建設経費は約5,500万円で、約6,200名の児童生徒と、教職員等の給食を、月額小:780円、中:880円の給食費で提供していました。また、配送は、午前10時30分~12時の間に運搬車3台で回していたようです(運搬車には、コンテナが4台積載可能で、1つのコンテナには6学級分の給食を収納することができました)。
なお、新校舎建設により給食調理室を有していた春日新田小学校と、時間内での配送が困難な桑取小・中学校の3校は、共同調理場方式ではなく単独調理場方式(自校式)ですが、これにより直江津市内ではすべての小中学校が完全給食となりました。
戦後50周年平和祈念セミナーは、戦後50年目の平成7年(1995年)8月2日に開催されましたが、その際、美食に慣れた子供たちに給食の変遷を通じて「平和の尊さ」を実感してもらいたいと、すいとんやコッペパン、脱脂粉乳の試食や給食写真パネルの展示等も行いました。
この資料は、その計画段階で参考にした、和田小学校の「給食だより」です。和田小学校の給食は、昭和30年(1955年)に開始されたこと、約600人の給食を2人の調理員で作っていたこと等が紹介されています。また、裏面には子供たちの父母や祖父母の給食の思い出が載せられており、大変興味深いものがあります。
戦前の新潟県及び上越地域の学校給食に関する記事もいくつか展示しています。
下の写真の記事は、昭和7年(1932年)7月に県が行った「欠食児童」の調査結果を伝えています。その他、抽出学校で秘密裡に行った弁当調査等を伝える記事は、調査内容・方法の是非はともかく、結果からは当時の状況をうかがい知ることができます。また、国の関与で始まった昭和7~8年ころの学校給食で、調理して提供していた学校が約43%、米等の現物を給与していた学校が約57%、合わせて県内の8割の学校で給食を実施していたことも伝えています。さらに、場合によっては現金での給与も認めてもらいたいと、より地域の実情に密着した柔軟な対応を求める声があることも取り上げている点は着目されます。