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上越における近世・近代の恩赦

印刷用ページを表示する 掲載日:2019年11月12日更新

令和元年10月22日、「即位礼正殿の儀」に合わせて「復権令」が公布され、恩赦(政令恩赦)が26年ぶりに実施されました。対象となったのは、罰金刑を受け終わり3年以上経過した人(約55万人)で、今回は「復権」のみが実施され、「大赦」や「減刑」は行われませんでした。

普段はあまり話題に挙がらない恩赦ですが、今年はテレビや新聞等で取り上げられました。しかし、そもそも恩赦とは何なのか、詳しく知っている人は少ないでしょう。また、恩赦は必要なのかと疑問に思っている人もいるでしょう。

そこで今回は、上越における近世・近代の恩赦の事例も交えながら、恩赦についてまとめてみました。恩赦の在り方について考え、議論する契機になれば幸いです。

展示説明資料 [PDFファイル/574KB]

資料1:御詫言之覚(「五印 万年覚」下:高田図書館所蔵)

この資料は、有徳院(8代将軍:徳川吉宗)の25回忌法要に当たり、寛永寺執当(仏頂院、恵恩院)が高田藩榊原家に、高田領内の百姓(元庄屋)の恩赦を申し入れたことについて、安永4年(1775年)9月から12月にかけての経過を記した文書です。将軍家菩提寺であった寛永寺は、幕府や各藩の恩赦に対して口添えする強い権限を有していました。元庄屋は、何らかのツテを頼って寛永寺に口添えを願い出たと考えられます。また、寛永寺貫主は「上野 宮様」とあるように代々皇族が就任していました。したがって、申入れのあった榊原家でも、その対応に苦慮したことが読み取れます。

結果的には、この元庄屋が入牢に至った経緯を踏まえ、当人やその罪状が「御国政に於いて差免じ難き儀に御座候者」、「国役に相拘り御免成られ難き者」であり、このような件で「御断りに成られ候御幷」も過去にあったということから、幕府にも報告、相談の上、断りを入れたようです。

「御詫言之覚」の写真

資料2:公方様他界ニ付(「十五印 万年覚」全:高田図書館所蔵)

この資料は、天明6年(1786年)9月8日、公方(10代将軍:徳川家治)が死去したことに伴う恩赦の一例が記されています。これによれば、追放されていた百姓が、(1)勝手に立ち帰ったばかりか、(2)盗みも犯したので、重犯により本来であれば死罪のところ、将軍死去による忌中のため減刑され、入墨をした上で領内での追放で済まされたということです。

興味深いのは、忌中に伴って、いわゆる「鳴物停止令」が出され、その具体が読み取れる点です。月代(さかやき)を剃ってはいけない期間、普請(土木工事)や武芸稽古、鳴物音曲をしてはいけない期間がそれぞれ示されています。また、他の記事では、「追放以上ハ来ル十一月より、死罪ハ来未三月より申渡」、吟味入牢中で軽微な罪の者は「一先ツ出牢預ケ」とあり、刑の申渡しや執行にも先延ばしや配慮がなされたようです。これらの措置は、将軍等の死という政治的危機に対して、天下のすべての鳴物等が止まり、「日本静謐」という社会状況の回復が強く要請されたからだと考えられています。

「公方他界ニ付」の写真

資料3:新政府大赦通達(庄田直道家文書:公文書センター所蔵)

この資料は、明治新政府が慶応4年(1868年)1月15日の「明治天皇御元服大礼」に際して実施した大赦の趣旨を書き留めた文書です。勅使が各地を巡回して周知したため、ほぼ同一の文言、表現で全国各地に残っています。

この大赦の特徴は、何と言っても「容す(ゆるす)べからざる者と雖も、朝敵を除くの外、一切大赦」にあるでしょう。条件は、朝敵であるか否かのみで、罪や罰の軽重を問わずに大赦を行ったと読み取れますから、その規模は相当大きかったと考えられます。また、前半に書かれている大赦の趣旨には、明治天皇の元服大礼に際して「御仁恤(あわれんで情をかけること)の聖慮を以って、天下無罪の域にしたい」とあり、734年に聖武天皇が行った大赦の趣旨に重なる部分があります。

「通達」の写真

資料4:大赦の申渡し状(森本家文書:高田図書館所蔵)

この資料は、資料3:「明治天皇御元服大礼」大赦に基づき、明治元年(1868年)10月2日、高田藩の領奉行所(村々の年貢や民生、司法等を担当した役所)が、大豆組大肝煎に対して、村預けになっている百姓を赦免するので本人に申し渡すよう命じている文書です。

「村預け」とは、罪人を村役人に預け、所定の期間、禁固にしたり村役人の管理下で仕事に従事させたりする刑罰です。この人は、当初、何年の村預けを申し渡されたのか不明ですが、文久元年(1861年)からなので、約7年間で赦免されたことになります。

書状の写真

資料5:恩赦に伴う配慮事項を記した「通牒」 (「庶務書類綴」直江津町役場:公文書センター所蔵)                                                                                                   

この資料は、「明治天皇御大喪」(大正元年9月13日)恩赦に際し、新潟県内務部長・警察部長の連名で、各郡市長・警察署長宛てに発出された文書を受けて、中頸城郡長が郡内各町村長宛てに出した文書です。恩赦によって「出獄人」が社会に復帰することに伴って、様々な問題が予期されることから出されたものです。前文に続き、7か条にわたって具体的な配慮事項が記されています。

注目すべきは、「出獄人」は悪む(にくむ)べき対象ではなく、同情をもって保護することが人道に基づく行いであり、それが再犯防止の最良手段であること、そしてそれが結局は個人と社会の利益につながること、さらにはこのことに関する世人への啓発の必要性を述べている点です。現在の恩赦では、対象となる罪質は軽微なものに限られていますが、当時は必ずしもそうではありません。そのような状況下で本通牒の内容は、非常に進歩的であったといえるでしょう。

「通牒」の写真

資料6:天皇の大喪に伴う恩赦を伝える新聞記事 (「高田新聞」、「高田日報」:高田図書館所蔵)

明治天皇と大正天皇の大喪に伴う恩赦を伝える記事を集めて展示しています。世人がもつ、出所する人への極端な先入観の払拭や社会への啓発を意図したと考えられる記事、選挙違反者への恩赦を批判的に伝え、権力による恣意的運用のチェック機能を果たそうとしたと考えられる記事などは注目に値します。

展示している記事の中には、中央の出来事ばかりでなく郷土紙らしく上越の動きを伝える記事、少し世俗的な事件や出来事を伝える記事もあるため、読んでいて飽きません。また、恩赦で多数の出所者があれば刑務所の経費が軽減されると思いきや、そうではないことがわかる記事、改元の前後には恩赦が重なるため最終的には短期で出所できる事案を紹介する記事もあり、興味深くかんじます。

下は、「明治天皇御大喪」大赦を伝える記事です。

記事の写真

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