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昔の上越の人々が見た天文ショー

印刷用ページを表示する 掲載日:2020年1月12日更新

令和元年12月下旬に地球に最接近した「ボリソフ彗星」は、同年8月に新発見された彗星です。有名なハレー彗星をはじめ、今まで観測された彗星はすべて太陽系に属する彗星ですが、ボリソフ彗星は観測史上2例目の恒星間天体(太陽系外から来て太陽系から去っていく天体)であり、彗星としては史上初めて観測された恒星間彗星とのことです。どこから来て、どこへ向かっているのか謎に包まれています。そう聞くと、夢と不思議を感じずにはいられません。

おそらく昔の人も、彗星に限らず空で展開された天文ショーを見上げたことでしょう。しかし現代とは異なり、科学が未発達であった当時において常とは異なる空に人々が感じたのは、夢や不思議以上に恐れ(畏れ)であったと想像できます。

今回は、上越に残る古文書をはじめ各地の文献を紐解き、昔の人が彗星・日食・オーロラをどのように見たのか紹介します。

展示説明資料 [PDFファイル/691KB]

資料1:天文方より御届之大畧(加藤家文書:高田図書館所蔵) 天保14年(1843年)2月

この資料は、地元の庄屋で、藩から大肝煎も任されていた加藤家に伝わる史料で、天保14年2月に現れた彗星について、天文方(江戸幕府によって設置された天体運行および暦の研究機関)が届け出た解説の概略を記した文書です。江戸時代以前、彗星は、「彗星:ほうきぼし」または「白気(はっき)」などと呼ばれ記されました。この資料で天文方は、大きく2つのことを述べています。

1つは、観測の結果として、「白気の如き」ものを「彗星」と断定しています。

2つ目は、古来より彗星を吉凶の兆とみる件についてです。これについて天文方は、彗星を凶兆とする中国の古文を紹介しながらも、西洋の最新の情報、明和6年(1769年)7月に現れた彗星の観測記録を基に、「一種の寿星」と言うべきであり、「妖星には御座無く候」、「吉凶の兆に拘り候ことは毛頭御座無く候」と述べるとともに、今後も正確を期すために観測を継続する覚悟を伝えています。迷信にとらわれずにデータに基づいて判断する姿勢、探求し続けようとする姿勢は、さすが科学者集団と言えるでしょう。

また、末尾に、推古28年(620年)以来の「白気」や「赤気」(オーロラ)等の記録も記されており、大変興味深い。

なお、天保14年2月(新暦3月)の彗星は大変大きくて明るかったそうで、全国的、世界的に記録が残されています。公称は「3月の大彗星(Great March comet)」とのことです。

資料1(画像)

資料1の翻刻 [PDFファイル/214KB]

資料2:「九々夜記 写」乾巻(榊原家文書:高田図書館所蔵)

「九々夜記」の筆者は、高田藩榊原家臣と考えられますが不明です。しかし、当時の珍事や世間話を好んで収集記録しており、相当好奇癖のある人物であったと思われます。本資料は、それを文政5年(1822年)に神木なる人物が写したもので、乾(ケン:いぬい)巻、坤(コン:ひつじさる)巻の二巻あります。ここでは、寛保2年(1742年)~安永4年(1775年)の記事からなる乾巻から、次の3つの記事を紹介します。

  1. 明和6年(1769年)の彗星に関する記事
  2. 明和7年(1770年)の日食に関する記事
  3. 明和7年(1770年)のオーロラに関する記事 

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明和6年夏の彗星は、全国的に記録が残っており、畿内の民衆は「豊年之瑞」として「稲星」と呼んだようです。一方、公家社会では凶兆と見て、臨時に御神楽を行って危機の打開を図りました。彗星に対して共通して畏れを抱きながらも、民衆はプラス思考で、公家社会はマイナス思考で彗星を迎えている点は興味深いところです。

「九々夜記」の筆者は、「彗星」に関心をもって継続的に観察するとともに正確に記録する一面を見せながらも、一方で「絵にかける屁の如し」と実害なしと見て、「彗星(ほうきぼし)」を「放屁星(ほうひぼし)」と揶揄しています。

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明和7年5月1日の日食については、暦文で皆既日食と予測されていたことや、約30年前の国替えの節に不意の皆既日食があって慌てたという経験談から、藩を挙げて対処し待機したことが読み取れます。しかし結果的には、雲が出たこともあってか、特徴的な変化もなく肩透かしを食らったようです。「佐渡国略記」には「午上刻三四分程東方ヨリ掛(欠)ケ」とあるので予測どおり日食はあったようですが、部分的であったと考えられます。

また、後に江戸でつくられた、皆既を予測した天文方を皮肉った狂歌を筆者は聞き及び、江戸でも同様だったかと共感して、その狂歌3首を紹介しています。天文方が作成した暦文は江戸基準と考えられますが、江戸においても皆既ではなかったものと思われます。

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3には、明和7年7月27日に、筆者自身が体験したり人から聞いたりした不思議な出来事が記されています。筆者は、高田を離れて信州(長野県)野沢温泉に居り、その夜半、北方(高田方面)の空一面が赤くなり、これは高田町屋が火事かと高田からの湯治客が慌て、帰郷した者もいたようです。また、高田からは海を越えて北にある佐渡が火事と考えた人もいたこと、深夜2時ころには収まったこと、「空火事」・「海火事」と呼ばれたこと、北海から火の玉が上がり空を焦したとの説もあったこと等の伝聞が記されています。

さて、明和7年7月28日は、全国的に「赤気(せっき)」=オーロラが観測された記録が残っています。「佐渡年代記」では「戌之刻より来た(北)の方の空赤気ありて火焔の如し、外海府村々火事にもあらんかと相川に住せし海府出生のもの共皆々戸地、戸中村辺迄至りて様を尋ぬといへとも別条なし、又相川より南の沢根、河原田辺に而は相川に火事ありとて、中山、下戸迄駆付しものもありと聞ゆ」と伝えています。このように観測地から見て北方にある町の火事を疑う状況は全国的に共通しています。さらに「越後年代記」では、「北方赤きこと如火、其中に白蛇の様をなすもの現れ、南北になびくこと五十余筋」とあり、私たちがイメージするオーロラに近い形状であったことがわかります。「九々夜記」の筆者は、赤気(オーロラ)のことは知らなかったようですが、観測記録の共通性から、これは上越から観測されたオーロラの記録と見るべきでしょう

ところで、日本のような低緯度でもオーロラは出るのかと疑問に思われる方もいるでしょう。しかし、磁気嵐の際は、それが小規模の場合は光りが弱くて肉眼では見えないだけで、オーロラは発生しているそうです。昭和33年(1958年)2月12日付の「新潟日報」は、「昨夜赤いオーロラ 北方に県下各地で観測」と見出しを付け、火事ではないかと第九管区海上保安本部が巡視船を出す騒ぎになったことを伝えています。また、資料1にあるように、推古28年(620年)以来、日本でもオーロラが観測されてきたことが明らかになってきました。明和7年のオーロラは、その観測記録から、観測史上最大といわれる1958年2月11日の低緯度オーロラをしのぐ規模だったのではないかとも言われています。

なお、赤気が現れた日付について、「九々夜記」は7月27日、他は28日と一日ずれている点については、筆者自身の勘違いか、写す際の誤記と考えるのが合理的です。

資料2表紙(画像)資料2の1

資料2の翻刻 [PDFファイル/208KB]

資料3:「訓蒙天文図解 巻の下」から「彗星の事」(平成25年度収集典籍:公文書センター所蔵)

この資料は、アメリカの小学天文書を、岡田伴治が「文の鄙俗を厭わず唯読易く、解易き」訓蒙の書となるように訳した書籍です。その中から、「彗星の事」を抜粋しました。

その中で、彗星を「怪異の星」、「水旱、刀兵あるの兆」と見なすことを根拠のない「妄説」とし、それが人々に恐怖を与えているとしています。その上で、彗星といっても、その数は多数あり、それぞれの周期や軌道、形状等も異なることを、解説図も付けて丁寧に述べています。そして最後に、地球に衝突する可能性はほぼ無いこと、万一衝突しても恐れる程のことは無いことを強調しています。

当時の日本には、彗星の出現を凶兆と見る向きも、まだありました。(当センターは、多発する自然災害を彗星と結び付け、「彗悪星」と表現している明治4年の文書も所蔵しています。)このような状況に対して本資料からは、事実に基づかない、いたずらに恐怖心をあおる迷信を払拭し、物事を科学的に見たり考えたりすることの重要性を伝えようとする意図が感じ取れます。もちろん、当時の科学力に基づいた記述であり、現在から見れば必ずしも正しくない部分があるなど時代的限界は見えますが、それによっていささかも本資料の価値が下がるものではありません。

資料3(画像)

資料3の翻刻 [PDFファイル/570KB]

資料4:「明治六年太陽暦」明治5年発行(布施秀治氏関係資料:公文書センター所蔵)

明治5年(1872年)11月9日、「今般改暦ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候條此旨相達候事」と太陰太陽暦から太陽暦への改暦の布告が出されました。以後、天保暦は旧暦と呼ばれるようになります。

その布告では、次のように定められました。

  • 今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付 来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事 但新暦鏤板出来次第頒布候事
  • 一箇年三百六十五日 十二箇月ニ分チ 四年毎ニ一日ノ閏ヲ置候事
  • 時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候處 今後改テ時辰儀(時計のこと)時刻昼夜平分二十四時ニ定メ 子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ 午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事

上のとおり猶予は20日余しかないという、あまりに突然の改暦でした。すでに売り出されていた天保暦による暦も、急遽、作り直さなければなりませんでした。展示資料は、改めて作成された日本で最初の太陽暦です。

江戸時代もそうですが、暦には日食や月食の予測が記されています。その予測にしたがって、有形無形の準備をしたものと思われます。展示資料の「明治六年太陽暦」には、5月12日と11月4日の年2回、「月食皆既」とあります。

資料4(画像)

資料5:彗星接近を伝える郷土の新聞記事(「高田新聞」、「高田日報」:高田図書館所蔵)

明治43年(1910年)の「ハレー彗星」、大正10年(1921年)と昭和2年(1927年)の6年余の周期をあけて接近した「ポン・ウィンネッケ彗星」、昭和5年(1930年)に発見されたばかりの「シュワスマン・ワハマン第3彗星」に関する記事を会場で展示しています。

明治43年のハレー彗星接近時には、一部の天文学者が有毒ガスを含む尾に地球が包まれると予測したため、地球上の生物は死滅するとの噂も出回りました。その他、空気がなくなる5分間に備えて自転車のチューブを買い占めたり、水を張った桶で息を止める訓練をしたりする者もいたとか…。また、それらの風説に乗じた詐欺について伝えている記事も展示しています。

しかし総じて記事は、それらの風説を鎮めるべく、冷静な論調で書かれていることが見て取れます。大正10年以降の記事には、明治43年のハレー彗星接近時の騒動からの学びや科学の進歩等から、根拠のない風説そのものが取り上げられていないことが分かります。

下は、会場で展示していない、昭和7年(1932年)10月3日付「高田新聞」の記事です。

資料5(画像)