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雁木の話あれこれ

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印刷用ページを表示する 掲載日:2020年7月2日更新

雁木(がんぎ)とは、主屋(おもや)に付属する下屋(げや)のことです。前面道路に接して庇(ひさし)を設け、それが町並みに沿って連続して雁木通りを形成し、歩行者用の通路となっています。

上越市民はもちろん、高田を訪れた人々は、当たり前のように雁木を利用し、その恩恵を受けています。しかし、本来、雁木は私有物であり、雁木下は私有地です。したがって、だれもがいつでも自由に公共的歩道として雁木を利用できるシステムは、郷土の先人がつくりあげた文化です。

そこで今回は、上越に残る古文書や歴史公文書等の文献を紐解き、私有財産でありながら公道でもある雁木について紹介します。

展示説明資料 [PDFファイル/1.06MB]

資料1:雁木について記した高田藩の記録(「記録便覧 廿」 榊原家文書:高田図書館所蔵)

「記録便覧」は、高田(榊原家)藩の文字どおり記録の便覧です。したがって、詳細は読み取れませんが、高田藩制(藩政)を時間をかけずに広く浅く把握できる資料です。雁木についても数か所、記録が残っており、その中から一つ紹介します。

資料1は、町並から奥に引っ込んで家作りしようとする人に対して

  1. 奥に引っ込んで家作りしてもよい前例をつくることにつながる。
  2. 町並が途切れ、景観が悪くなる。
  3. 雁木が途切れると、降雪時に不便で迷惑する。

という理由から許可を出さないよう名主(なぬし)達が藩に願い出た記事です。最も重視している点は、たとえ家は引っ込んで作ったとしても、雁木だけは町並に沿って建てるよう願っている点から、3の雁木が途切れることであることが読み取れます。雁木は、途切れずに連続してこそ、その機能を十全に発揮するのであり、蟻の一穴は許さないとする町の強い意思を感じます。

共同体である町が、個の私有財産に干渉する背景には、町人達が、私有財産を相互に提供し合い、その恩恵を相互に享受し合うという共助の考え方が根本にあると考えられます。不満のある人もいたかも知れませんが、一方で雁木による利益にも無視できないものがあります。共助をベースに合意の形成が図られ、その風土が雁木を支え続けてきたのではないでしょうか。

資料1:便覧2(画像)写真1:便覧1写真1:便覧表紙

資料1の翻刻 [PDFファイル/172KB]

資料2:雁木の地所・維持費負担等に関する調査申入書と上申書(「地理ニ関スル綴」高田町役場:公文書センター所蔵)

この資料は、明治26年(1893年)8月、県の要請を受けて中頸城郡役所が高田町長に出した、雁木の地所や維持費負担の方法等について調べて報告するよう指示した申入書と、同年9月、高田町が郡長宛に回答した上申書です。

この資料によって、次のことが読み取れます。

  • 雁木の地所は 回答:一般市街宅地であり、民有地(私有地)である。
  • 税金は賦課されていたのか 回答: 有租地(地租が賦課される土地)であり、課税されている。
  • 維持費は、だれが負担していたのか 回答: 雁木の所有者である各家々で負担している。

県がこのような調査を指示した意図は不明ですが、官有地と民有地の別を明示した図面の提出も求めていることを考え合わせると、市街地の近代化にとってはマイナス要因となりうる雁木の存立形態を把握し、対処方法を検討する材料にしたとも考えられます。

いずれにしても、税金や築造費、維持管理費を個人負担しながら、それでもなお私有地を公共のために提供し続けてきた雁木文化を創造し、継承してきた高田の町家の人々に対しては、その恩恵に与(あずか)った市民の一人として心から感謝したいと思います。と同時に、交通事情等が変化した現在における雁木の在り方には、所有者の考えを尊重しつつ、柔軟な発想による工夫が必要とも思います。

資料2:回答(画像)写真2:照会

資料2の翻刻 [PDFファイル/133KB]

資料3:雁木下公用地ニ関スル件(「地籍ニ関スル綴」 高田市役所:公文書センター所蔵)

この資料は、大正13年(1924年)6月にやり取りされた、1:県(高田土木工区)から高田市への照会文と、2:高田市から県への回答文です。

  1. 県からの照会:鍋屋町(なべやまち:今の東本町5)、鍛冶町(かじまち:東本町5)、直江町(なおえまち:東本町4)、中屋敷町(なかやしきまち:東本町3)、長門町(ながとまち:東本町2)、善光寺町(ぜんこうじまち:東本町1)、下紺屋町(しもこんやまち:本町7)の通り(今の東本町通り)の雁木下は公共用道路敷地か否か

  2. 高田市の回答:本市開府以来、一般交通のために、各家々が費用を負担し築造してきたもので、民有地に相違ありません(原本は「官有地」となっていますが、文脈から「民有地」と書くべきを誤記したものではないかと考えられます)。しかし、公共的慣行施設なので、万一にも撤廃等の計画があるとしたら十分に考慮する必要があります。

注目すべきは、資料2に続き、県が雁木下の地籍を重ねて問い合わせていることです。二度にわたる新潟市の大火において雁木の存在が被害を大きくしたと考えられたことを受け、雁木を撤去すべしという県条令が明治42年に公布されたが、雪国の実情を無視した条令は、新潟市以外では徹底しなかったと「高田市史」は伝えています。防災面を含めて、県としては近代的な都市計画を推進する上で、雁木はそのマイナス要因と捉えていたのかもしれません。(現在の火災の主な延焼パターンをみると、雁木が延焼を助長するような火災はなく、むしろ火災発生時における二階からの避難路を与えるという観点から評価されているようです。)

6年後、昭和5年6月の「高田新聞」「高田日報」の記事からは、雁木下を官有地(国有地)と捉えている県の認識が読み取れます。県が、どのような経緯で雁木下を官有地(国有地)と認識するようになったかは不明ですが、県の積極的な意志を感じます。(大正8年に制定された旧道路法で、道路は種別を問わず、すべて国有財産とされたことが影響しているのかもしれません。県が「雁木下」は「公共用道路敷地」か否かを問い合わせていることからも旧道路法の影響が想定されます。)

いずれにしても、雁木下の公私の別について、再三にわたって照会が続く背景には、「私」でありながら「公」としての性格をもつ雁木の曖昧性が影響していると考えられます。

資料3:高田市の回答(画像)資料3:県からの照会(画像)

資料3の翻刻 [PDFファイル/80KB]

資料4:道路拝借願(「明治20年 諸願書綴」戸長役場)/市有地占用許可申請(「賃貸借契約書綴」高田市役所)公文書センター所蔵

この2つの資料からは、本来は私有地であるはずの雁木が、その公共的性格によって、「公」からの管理を受けていることが読み取れます。

1:明治20年(1887年)12月2日付け「道路拝借願」

この資料は、雪を凌(しの)ぐため、通行の妨げにならないようにするので冬季間、雁木の軒下を板で囲むことを許可してもらいたいと、雁木所有者が高田警察署に提出した願書です。一人ずつではなく、共同で願書を提出している町もあります。

雁木下は私有地であり、雁木造りは所有者が建造費、維持管理費、地租を負担する私有物です。したがって、その私有物を板囲いすることには、本来は「公」の許可などいらないはずです。そもそも、自分の土地なのに「拝借願」とはおかしな話です。しかし、雁木下は、公共的歩道であり、願人自身も「公道」と認識し、自ら願書に書いています。その公道に改変を加えるに当たっては、たとえその改変が自分個人のためだけではなく公益になることであっても、「道路拝借願」が必要ということになるのでしょう。

明治20年「諸願書綴」には、冬季間の雁木板囲いの他に、雁木外の街路に洋燈を設置するために警察署長等に宛てた「洋燈設置願」が多く綴られていますが、これはまさに街路、つまり公道に構造物を建設するので理解できます。しかし、雁木下に出る自宅入口脇、つまり私有地に、玄関を照らす洋燈を設置する場合にも「設置願」を提出しています。

資料4:道路拝借願(画像)

資料4:道路拝借願の翻刻 [PDFファイル/87KB]

2:昭和10年(1935年)11月28日付け「市有地占用許可申請」と、その回答起案文書

この資料は、造り込み式雁木の二階部分に座敷を造りたいので市有地の占用を許可願いたいと、雁木所有者が高田市に出した申請書と、それに対する市の回答起案文書で、申請者が市に納める賃貸料も示されています。しかし、借用面積が5合(ごう)、つまり畳1枚分というのは現実的ではなく、現在の上越市が採っている固定資産税の一部免除と同様に、実際の面積から一部減免されているのかもしれません。いずれにしてもここからは、雁木部分の敷地は「市有地」であると、官民双方が共通認識していることが分かります。

元来、私有地であったはずの雁木下ですが、明治期後半から雁木下地籍について県から高田町、高田市への照会が重なりました(資料2、3参照)。そして、ここ(昭和10年)に至って官民共に雁木下は官有地であるとの認識を示すようになります。また、「高田日報」「高田新聞」の記事によれば、昭和5年の段階ですでに、県と高田市は雁木下は官有地と認識していますが、民の方はその認識が徹底していない状況が読み取れます。その背景について、資料3の解説で、大正8年に制定された旧道路法が影響している可能性を示唆しましたが不詳です。

いずれにしても雁木をめぐる「公」と「私」との相克は、元来は私有地であったはずの自分の土地を使用するのに、市に許可を願い出、その上賃貸料まで市に納めなければならないという状況を招くこととなりました。

資料4:市有地占用許可申請(画像)資料4:回答起案文書(画像)

資料4:市有地占用許可申請及びその回答案の翻刻 [PDFファイル/113KB]

資料5:雁木下は歩道です 私有化は古い考え(「広報たかだ」 高田市:公文書センター所蔵)

この資料は、高田市が発行していた「広報たかだ」の昭和34年1月1日号です。高田警察署長からの申入れを受けて、次のように広報しています。

1:雁木は歩道であり公道である。しかし、実態は

  • 私有物のように考え、各種物件を放置したり、商品等を陳列したりして通行を阻害している。
  • 通行者は車道を歩かなければならなくなり、交通事故の原因となったり、自動車の警笛乱用につながったりしている。
  • 再三の指導にも拘らず、ますますその弊害が増大する傾向にある。

2:「雁木下は自分の物」という古い考え方は困る。この悪習を打破しない限り、街の発展も進歩も期待し得ない。

そして結論として市は、積雪期を迎え、子供等の交通も難渋するので、処罰を受ける前に各自の公徳心から「雁木は公道」との観念に徹し交通への配慮を求めています。

この年の最深積雪は1月11日で約1メートル50センチと、当時としては平年並みでした。広報の写真を見ると、撮影時にはまだ車道に積雪はなく、通行者は車道を歩くことが可能であったため、雁木下の私用が横行したものと考えられます。

しかし、本を正せば雁木下は私有地です。一方で、江戸時代から住民共有の歩道であり、公道としての性格も併せもっていました。町家の人々相互が、私有地の提供者でもあり利用者でもありました。その意味では、「私」でありながら「公」である雁木は、地域住民相互による暗黙の契約に基づいて成り立っていると言えるでしょう。

したがって、本来私有地である雁木に対して行政が干渉する根拠は、その公共性にあると考えられます。「上越日報」、「高田新聞」、「高田日報」の記事によれば、雁木下に商品陳列等をした場合に、明治41年の段階で科料50銭、昭和5年で科料1円に処せられていたことが分かります(いずれも現在の貨幣価値に換算すると千円~二千円程度です)。しかし、この段階では一部の散発的な事案であったと考えられます。それが、市があえて広報で、雁木下を私有地と考えることを「古い考え」、「悪習」と強い論調で断言し、改善を求めなければならない状況になったのは驚きです。時は高度経済成長期に差し掛かったころで、住民間で相互に守られてきた暗黙のルールを脅かす風潮が起こりつつあったのかもしれません。

このように、雁木に対する「私」と「公」との相克は、その時々の世相、時代背景の影響を受けながら、たえず流動的であったと考えられます。

資料5:広報たかだ(画像)

資料6:高田の雁木の史料上の初見資料(「正徳年間 高田町各町記録」 榊原家文書:高田図書館所蔵)

「高田町各町記録」が作成された正徳年間(1711年~1716年)は、榊原家の一つ前の、松平越中守家時代です。この資料は、その当時の高田城下における各町人町の記録です。

この記録によると、「下紺屋町(しもこんやまち)」(現在の本町7)の項に、破損して読めない部分も多いのですが、「通りハかんき付置申候(つけおきもうしそうろう)」とハッキリと書いてあります。これが、高田における雁木の史料上の初見とされています。したがって、正徳年間までには、少なくとも現在の本町通りの北端にまで雁木が整備されていたことが分かります。

これを受けて「歴史的建造物の保存と活用に関する調査報告書」(上越市創造行政研究所 平成14年)では、時代の異なる町絵図の比較検討等から、元和年間(1615年~1624年)に建設され始め、正徳年間までに整備されたと踏み込んで述べています。

写真5:下紺屋町2写真5:下紺屋町1写真5:表紙

資料7:雁木に関わる記事(「上越新聞」、「高田新聞」、「高田日報」:高田図書館所蔵)

明治末~昭和初期の雁木に関する記事を、郷土の新聞から集めてみました。展示会場では、次のような内容の記事を紹介しています。

  • 旧刑法(違警罪)や、警察犯処罰令による、雁木下の私用、交通妨害に対する処罰を伝える記事。(違警罪と警察犯処罰令違反は、戦後の軽犯罪につながる軽微な罪です。)
  • 切っても切れない高田と雁木と雪にまつわる興味深い話題を提供している記事。(「高田人の心の雁木が取り去られた時、跡には名誉ある高田の残骸が横はる許りだ」という記事の一節が心に響きます。)
  • 昭和2年の大雪がもたらした様々な問題を伝える記事。(冬季の物流はソリが担っていたことや、客を運ぶ人力ソリも走っていたこと、この年は大雪でソリの車道走行は無理なので緊急的に雁木下通行を許可したことなども記事から分かります。)
  • 町の発展にからむ雁木の記事。(夏の景物であった高田の夜店は楽しそうです。)
  • 雁木下の公私問題に関わる記事。

下は、中ノ俣の猫又退治伝説にからめた雁木の由来を伝える、昭和4年6月2日の「高田新聞」の記事です。

写真6:新聞

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