今月(7月)は毎年、高田城址公園観蓮会(かんれんかい:旧「はすまつり」)が行われる月です。蓮は、外堀一面を埋め尽くしており、葉の緑の中から顔をのぞかせ咲き誇る淡いピンクの花は、お堀のある景観と相まって見事です。春の観桜会も、お堀が無ければその美しさは半減します。そもそも高田城には石垣がなく、高田城址を城址たらしめているのはお堀に負うところが大です。
そこで今回は、高田城の「お堀」に焦点を当て、歴史資料等からお堀にまつわるエピソードを紹介します。
右は、昭和39年に上空から撮影された高田城址の本丸及び内堀の写真(当センター所蔵)です。満開の桜が見事です。
高田城は、直江津の福島城に入っていた松平忠輝(徳川家康の6男)の意向により、慶長19年(1614年)に築かれました。13家の大名による天下普請で、その陣頭指揮に当たったのは、忠輝の義父:伊達政宗でした。築城前の高田付近は、平坦であるがゆえに関川等が蛇行し、小さな村が点在する程度でした。しかしそれは、一から新しく城下町を建設する上では好都合でした。
「上越文化財調査報告書 高田城」(上越市教育委員会 1972)や「高田市史」(高田市 1958)によれば、高田城の外堀は関川(と矢代川)の蛇行を利用して造成し、一方で城の東方に新たに流路を掘削して関川本流を確保したとしています。つまり、外堀は、元々は関川の流れそのものであったというのです。確かに空中写真を見ると、関川が流路を幾度も変えてきた痕跡(こんせき)を見て取ることができ、更に研究が進むことを期待したいところです。
空中写真を基に作成した「築城前の川の流路」図 [PDFファイル/1.68MB]
一方、内堀や濁堀、捨堀等は、築城時に新たに掘削したものです。内堀は、V字に中央部を深く掘る「薬研(やげん)堀」と伝えられてきました。張られた水は外堀とは異なり湧き水で、昭和30年頃の高田工業高校、45年頃の直江津高校による36か所の断面調査によると、現在の水面下の深さは最深部で平均3.66メートル(1.1~5.7メートル)です。また、幅は広いところで57.8メートル、狭いところで約36メートルでした。
内堀、外堀によって守られていた高田城ですが、その更に外側にある堀や川によっても守られていました。東方は築城時に掘削して新たな流路になった関川、南方は矢代川と新たに掘削した百間堀と青田川、西方は旧儀明川の流れを利用した青田川、また北方にも川が流れ、これらの堀や川が外堀の更に外側に配置され、特に南と西には土塁も併設されて外郭(そとぐるわ)を形成し、その内側を守る役割を果たしていました。
空中写真を基に作成した「築城前後の堀と川の流路」図 [PDFファイル/3.28MB]
築城当時の高田の姿を具体的に伝える史料は残されていません。現在確認できる最古の高田の姿を伝える絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に提出を命じた右図:「正保城絵図」(高田図書館 所蔵)です。築城から30年後の高田の様子を表すこの絵図を見ると、高田城が堀や川によって二重、三重に守られていたことがよく分かります。
高田城址の堀は、割合と現在に残っていますが、姿を消した堀もあります。終戦直後と現在とを比べてみると、「捨堀」が消滅し、「百間堀」の大部分は埋め立てられました。捨堀が完全に埋め立てられたのは昭和56年(1981年)のことです。それ以前、明治41年(第13師団が入城した年)には「濁堀」が埋められ、さらにそれ以前に「カラ堀」は水田化していました。
図:終戦直後と現在との堀域比較 [PDFファイル/658KB]
「広報たかだ」の「百間堀」に関する記事 [PDFファイル/596KB]
ここ40年ほどは内堀、外堀の面積は減少していません。今後も大切に守っていきたいものです。
下は、昭和33年(1958年)の外堀(西堀)風景写真(当センター所蔵)です。
「記録便覧」は、高田(榊原家)藩の文字どおり記録の便覧です。したがって、詳細は読み取れませんが、高田藩制(藩政)を時間をかけずに広く浅く把握できる資料です。その中には、右写真のように、堀に関する記事もあり、それを紹介します。
高田城の「御堀掃除」は、高田城下町の町人が負担しなければならない労役でした。これ以外に、城内の掃除や雪かき等も町人足役(ちょうにんそくやく)でした。これらの人足役を統括し、人足の派遣を差配したのが大仲使(おおちゅうじ:高田町において、町年寄に次ぐ由緒と格式をもつ町役人)であり、明和7年(1770年)10月の記事にあるように瀧口家と三館家がほぼ世襲しました。
堀の掃除とは、「御堀藻取」、つまり堀の藻(も)取りです。藻とは、マコモ(湿地に群生し大人の背丈ほどに成長する繁殖力の強いイネ科の植物:当地ではカツボと呼ぶことが多いようです)等を指し、町人を大規模に動員し、それらを取り払うことが高田町に課されていました。マコモ(カツボ)との格闘は、現代においても蓮のある景観を維持するために行われています。
「記録便覧」によれば、年によって異なりますが藻取人足に駆り出される人数は3,000人前後です。明和8年には3,639人とあり、当時の高田町の総人口が老若男女合せて約15,000人強ですから、相当な負担になっていました。宝暦9年(1759年)に、「難渋(なんじゅう)」なので「千人ニ限」るよう名主達が連名で願い出ています。また、実際に労働力を提供する代わりに「金納」(20両前後)で済ます年もあり、町としては「金納」にしてもらいたいと願書をたびたび提出しています。一方、藩としては「金納」は「例格(れいかく)」にはならないと、それが恒常化することを嫌っていたことが、天明元年(1781年)の記事から読み取れます。
「記録便覧」の「藻取人足」に関する記事の翻刻 [PDFファイル/348KB]
毎年夏、高田城址の外堀では、あざやかな葉の緑の間から淡いピンクの花を咲かせる蓮が、私たちを楽しませてくれます。現在は、城址の景観と相まって、その美しさを愛でる対象となっている蓮ですが、その蓮はいつ、だれが、どのような目的で外堀に植えたのでしょうか。
本資料は、戸野目在住の大地主:保阪貞吉(後に初代津有村長)が、川上直本(なおもと)に送った書状です。川上は、版籍奉還後に榊原政敬(まさたか)高田藩知事の下で大参事(だいさんじ:今の副知事に相当)を務め、廃藩置県後は高田県政を担った人物です。この書状が書かれた明治5年(1872年)当時の高田は柏崎県に属し、川上は第十大区(高田を中心とする旧中頸城郡の関川以西)の大区長を務め、高田住貫属(かんぞく)士族の取りまとめ役を担っていました(この後、本町3の旧第四銀行高田支店があった場所に創設された第百三十九国立銀行初代頭取、東頸城郡長に就任します)。
この書状からは、次の点が読み取れます。
明治5年(1872年)に「兼而(かねて)御堀江(おほりへ)植附置候(うえつけおきそうろう)蓮根」と書いていますので、それ以前にお堀の蓮は、保阪家によって植付けられたことになります。「高田市史」(昭和33年)等では、その年を明治4年としています。その明治4年には、高田城の敷地は廃藩置県によって政府に接収され、陸軍省の所有地となりました。したがって、当初は外堀借地の許可を得て蓮根栽培を行いました。なお、明治6年に旧藩の藩債(はんさい:借金)はすべて政府が引き継ぐことになりましたので、蓮根栽培の目的は、当初の旧藩の借金返済から、士族の教育・授産(じゅさん)資金へと変わっていきました。
その後、明治23年に高田士族(名義は旧藩主:榊原政敬)が12,000円で高田城址の払下げを受け、約20年ぶりに高田城を地元士族が取り戻しました。(このとき、借金をして払下げ金を工面した士族が多かったため、各士族に分配された土塁の老松千本余等が伐採されたと伝わります。)これによって士族の教育・授産資金は、蓮根栽培以外にも、田畑宅地の開墾、鯉や鮒の養殖等から得られるようになり、収益は年額三千円余にもなったそうです。
高田城址外堀の所有者は、次の経過で移り変わっています。
明治期(上の1,2,3)のお堀の蓮の植付けは、蓮根の売却益によって士族の教育・授産を図ることが目的でした。その後、第13師団の入城後~大正期(上の4)は国有地なので国の収入になりました。大正13年以降(上の5)は外堀が市有地となったことにより、蓮根の払下代金は市の収入源となりました(大正13年には1,000円強、14年には450円程度であったことが当時の市の決算書から分かります。ちなみに当時の高田市の一般会計予算総額は約30万円です)。
本資料は、大正15年(1926年)の蓮根払下げの契約に関する文書です。この年から払受人は入札で決められるようになり、右写真はその最初の払下契約書です。
本契約には払下代金は年額350円とありますが、予算額は500円と当時の予算書に計上されていましたので、これは市の予想を大幅に下回る額でした。昭和3年の「高田新聞」は、「秋及び春の二回に採取される蓮根は七千貫に達し、これが齎(もたら)す市の収益は或(あ)る時代には二千圓(えん)に近いことがあったけれど、その後蓮根の市価下落と採取人夫が独占的で賃金が高いため現在では僅(わず)かに市の年収三百五十圓に過ぎない」と伝えています。その後、下がり続けて昭和9年の100円が底値でその後は上昇に転じ、昭和16年には1,020円となりました。
昭和17年(1942年)の契約から、払下げの目的に「高田市内消費者ニ配給スルヲ目的トシ」との文言が加わり、お堀の蓮根も戦時下における食糧統制の対象となりました。この間の払下代金は、その目的ゆえか少し下がり、年額800円でした。しかし戦後はインフレの影響で高騰し、昭和21年には3,700円、23年には10,000円、30年には37,500円となっています。右写真(当センター所蔵)は、そのころの蓮根掘りの風景です。
そして、蓮根の収穫を行った最後の年と伝えられる昭和37年は、44,208円(同年度決算書)でした。なお、38年度の当初予算には40,000円の収入が計上されていましたが、年度途中で採取を中止したものと考えられます。39年度予算からは「蓮根売払代金」は計上されなくなりました。
ちなみに、大正末期における外堀からの市の収入源は、蓮根払下げ以外に次のものがありました。
本資料は、「はすまつり」が始まった昭和52年(1977年)から、第20回の平成11年(1999年)までの蓮の生育記録です。23年間の記録ですが、昭和54年~56年の3年間、蓮が壊滅または生育停滞したことにより「はすまつり」が中止になったため、第20回までの記録となっています。担当者は、1ページ目に、23年間の生育状況を年次別、北堀、西堀、南堀別に表した一覧を綴じており、大変分かりやすくなっています。
昭和62年からは、市が生育異常をもたらす一因であるアメリカザリガニの捕獲にも取り組み始め、年次別に捕獲数を記しています。「新潟日報」(昭和62年6月24日)は、「市職員が連日、捕獲作戦を展開している。(中略)捕獲作戦を始めたのは今月2日から。釣り糸に煮干やスルメをつけて一匹ずつ釣り上げる伝統的な方法で挑戦。(中略)既に捕まったザリガニは千匹を超えた。市では今後もしばらく捕獲作戦を続ける方針。だが、敵は何万匹いるか見当もつかないだけに、いくら戦闘を続けても「日暮れて道遠し」の感も」と伝えています。翌63年からは、ワナを仕掛けて捕獲する方法に変え、その年の捕獲数は39,206匹で最多でした。平成元年の報告書を見ると、仕掛けはエビ篭(かご)59個を漁協から借受け、餌としてホッケを用意したようです。
2番目に捕獲数が多かったのは平成7年の12,935匹で、捕獲しつくしたためか、その翌年から捕獲数が激減しています。このころは被害の大きい北堀のみで捕獲を実施しており、平成9年の捕獲開始当初、捕獲数が0匹との報告に対し、市長から西堀、南堀にも実験的に仕掛けるよう指示された旨のメモ書きも残っています。
本資料では、蓮の生育異常の原因として、次の2点を挙げています。
また、対策としては次の点を挙げて実行し成果をあげたことが、一覧の蓮の生育状況欄に「」が多くなったことから分かります。
上越市民なら一度ならず「高田城址公園の蓮は東洋一」と聞いたことがあると思います。外堀19ヘクタール(東京ドーム4個分)のほとんどを蓮が埋め尽くします。筆者自身、東洋一に疑いをもたず、市民として誇りに思ってきました。では、その根拠は何で、そして本当なのでしょうか。
市観光交流推進課は「上越観光Navi(ナビ)」というサイトで、「昭和28(1953)年、蓮の研究で知られる大賀一郎博士が訪れた際、「蓮池の規模の大きいことは世界でもまれで、特に紅白入り交じっているのは珍しい」と激賞しました。それを聞いた市民が“東洋一”と語り伝えて現在に至ります。」としています。また、同年8月7日の「新潟日報」は、同博士が「蓮池としては日本で一番大きなもの」と語ったとの記事を載せています。右写真(当センター所蔵)は、今から50年前、1971年の外堀(西堀)風景で、一面に蓮が咲き乱れ、遠方に南厚生会館が写っています。
一方、宮城県の栗原(くりはら)市と登米(とめ)市にまたがる伊豆沼(いずぬま)、内沼(うちぬま)は面積491ヘクタールで、上越市と同じく毎年夏に「はすまつり」を開催しています。ラムサール条約登録湿地で動植物の聖地であり、蓮はその中の一つという位置付けです。蓮の生育面積は明らかに高田城址公園よりも広く、宮城県観光連盟は「美しさもスケールも日本一」と紹介しています。しかし、蓮群生の歴史は1970年代以降のようで、大賀博士の「日本一」の評価は、当時としては間違いのないことと考えられます。
高田城址公園の蓮の歴史は前述したとおりであり、単に古いばかりでなく、高田で生活する人々のくらしと深い関係性をもって植え付けられ、大切に育んできたものです。加えて、高田城址の景観と相まって、その美しさは一層輝きます。
したがって、高田城址公園の蓮は、現在は生育面積では他に及ばないとしても、その来歴や地域との関係性、城址とマッチした景観等を含めて総合的に評価した結果として、地域住民が誇りをもって「東洋一」と言っても許されるのではないでしょうか。
筆者は子供のころ、お堀には体長数メートルにもなる鯉(こい)が主(ぬし)として棲んでいるという噂を聞いたことがあります。この手の話は、昔からあったようです。
大正8年4月8日の「高田新聞」は、「三百年間手を付けなかった」本丸濠(内堀)に網を入れる企画があることを、「鬼が出るか蛇が出るか」と好奇心をあおりつつ伝えています。記事は、噂も混じる目撃談として、6尺(約180センチメートル)の鯉、1尺5寸(約45センチメートル)の鮒(ふな)、蓑(みの)くらいの鼈(すっぽん)、お盆大の頭の鯰(なまず)等が棲息していると、「奇抜な催(もよ)ふし」に期待を寄せています。また、昭和3年5月5日の「高田新聞」は、鯉の幟(のぼり)を揚(あ)げる端午(たんご)の節句の日に「五月幟の様な大鯉 お濠で網にかゝる」との記事を、翌日にはその大鯉が「師団長のお情け」で濠に放されたことを「浦島の亀の様な話」として伝えています。
元々、高田城の堀は江戸時代、「殺生禁断(せっしょうきんだん)」の地(生き物を殺してはいけない場所)でした。
明治に入り、軍用地だった時期には軍人が、高田士族の所有地だった時期には士族らが釣りをしたり、せいぜい岸から網を投げたりする程度でした。したがって、大々的な捕獲や調査が行われなかったことが、巨大な生き物が秘かに棲息していることを期待する話につながったと考えられます。
上で紹介した高田藩の「記録便覧」と明治5年の保阪貞吉書状では「堀」と表記し、蓮根払下げ契約に関する上越市の歴史公文書(大正15年)と郷土の新聞(明治末~戦前)は「濠」としています。「堀」と「濠」は、どちらも「ほり」と読みますが、どちらが正解なのでしょう。
一般的に、「濠」は「さんずい」が付くことから水を張った堀を指し、水のない堀は空堀または壕と書き、それらの総称が「堀」のようです。したがって、どちらも間違いではなく、その形態にこだわった場合に「濠」としたと考えられます。
ちなみに皇居(江戸城)の堀は、ご承知のとおり広大な水堀です。現在、その管理を行っている宮内庁や環境省は、それらの堀を「濠」と表記しています。