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上越の史料が伝える怪異の世界

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年10月22日更新

古文書や古い新聞をめくっていると、小さいころに読んだり聞いたりした昔話のような不可思議な記事に出合います。事実なのだろうかといぶかしがりながらも、一方でワクワクした気持ちになります。テレビをはじめとするマスコミでも、昔から一定程度の割合で怪異が取り上げられており、その傾向は今後も継続するように思われます。

そこで今回は、怪しいと思いながらも見たり聞いたりしたくなる不思議な魅力のある怪異に焦点を当て、上越に遺る歴史資料が今に伝える怪異の世界を紹介します

以下に紹介する本展示の概要を、次の「展示説明資料」に簡潔にまとめましたので、時間のない方はこちらをご参照ください。

展示説明資料 [PDFファイル/1.25MB]

江戸時代の日本にUFO、宇宙人が来ていた(はてな):各地に遺る「うつろ舟」伝説

享和3年(1803年)に、常陸国(ひたちのくに:今の茨城県)に漂着したUFOと宇宙人、宇宙文字を記録した文書ではないかとも言われている史料があります。もちろん当時の人は、UFOの存在を知りませんから、当時の人がそれを意図したものではなく、漂着した乗物の形が現在私たちが認識しているUFOの形にそっくりだということから、最近になって生まれた見方です。

UFO型のように中に空洞のある舟のことを、当時は「うつろ舟(虚舟)」、「うつぼ舟(空穂舟)」と呼んでいました。民俗学に携わった方なら、日本各地に「うつろ舟」伝説が伝わっていることをご承知でしょう。舟の形状は箱型など多様ですが、中でも享和3年に常陸国に漂着した「うつろ舟」に関する記録には、舟とその中にいた人物が図示されているものが多くあります。しかも、その舟の形状が、当時の人が知る由もないUFOそっくりです。また、舟中から発見された文字のようなものは、どの国の文字にも該当せず、まるで宇宙文字のようです。そこから、実はUFO、宇宙人との遭遇事件だったのではないかとの説も生まれました。

享和3年の「うつろ舟」漂着に関する記事は、全国にその記録が遺っており、現在十数点確認されているそうですが、その中から2つ紹介します。下左写真は、屋代弘賢(やしろひろかた)著「弘賢随筆(こうけんずいひつ)」(国立公文書館蔵)で、下右写真は、駒井乗邨(のりむら)著「鶯宿雑記(おうしゅくざっき)」(国会図書館蔵)です。その他、「兎園(とえん)小説」、「瓦版」等もありますが、それらの記録も含めて、乗物の形は確かにUFOとそっくりであり、UFOや宇宙人との遭遇事件の記録かもしれないと想像しても不思議はありません。

「弘賢随筆」(写真)「鶯宿雑記」(写真)

そして今回、上越にも同事件の記録が遺っていることが分かりましたので紹介します。下の写真がそれであり、浣花井著「異聞雑著」(榊原家文書:高田図書館所蔵)です。著者の「浣花井」とは、18世紀後半、榊原高田藩の初代藩主であった榊原政永(まさなが)の下で藩財政の建て直しを主導した鈴木甘井(かんせい)のことです。また、国学、俳諧、茶道等で優れた業績を遺すとともに、出土遺物や古物にも関心を示した多才な人でした。「異聞雑著」にも、多岐にわたって見聞した内容が書き留められていますが、その中の1つが、江戸時代のUFO遭遇事件かもしれないエピソードです。

「異聞雑著」の漂着女性の写真「異聞雑著」の漂着舟の写真

「異聞雑著」の記事の翻刻 [PDFファイル/460KB]

時(享和3年)と場所(常陸国)、乗物の形がUFOそっくりであること、その中から女性が一人現れ、見慣れない文字が散見されたことなどの記事は、全国の他の記録と共通しています。ただ、決定的な相違点があり、著者の浣花井(鈴木甘井は記事の最後に、これはフェイクニュースだと私見を述べています。他の史料でそこまで踏み込んで私見を述べている記事はありません。さて本事件は、UFOそっくりな外国舟の遭難事件に過ぎないのか、あるいは何らかの意図で創作されたフェイクニュースなのか、真相は謎のままです。

UFO型の「うつろ舟」漂着は常陸国の事件でしたが、上越にも「空穂(うつほ)舟」が漂着したという記事が、「東遊記(とうゆうき)」補遺(ほい)に出てきます。著者の橘南谿(たちばななんけい)は医師で、修行のために全国を旅しますが、巡歴して得た奇事異聞を「東遊記」、「西遊記」としてまとめました。その中の1つのエピソードが越後国(えちごのくに)「今町(いままち:今の直江津)」を舞台とした「空穂舟」漂着事件です。南谿が直江津を訪れたのは、天明6年(1786年)3月であり、その際に収録したのでしょう。事件が起こったのは「去年の夏」と言っていますので、天明5年だったと考えられます。したがって、常陸国の事件よりも前になります。両者を比べると、直江津の方は図が無いので不詳ですが、「空穂舟」は「箱作り」とありUFO型とは思えません。しかし、「女子壱(いち)人」、船中の「水」と「菓子」等の共通点も見られます。

「東遊記補遺」で紹介している上越(直江津)の「空穂舟」漂着事件の記事 [PDFファイル/223KB]

「うつろ舟」漂着伝説に関する研究の第一人者は、田中嘉津夫(ペンネーム:加門正一)さんです。興味のある方は、本解説文中の「うつろ舟」等のキーワードをもとにネット等で検索してみてください。

地震の予兆(はてな):沖合からは大火事に見えた名立を包む赤い光とは

名立崩れの崖(写真)寛延4年(1751年)4月25日深夜(実際には26日未明)に高田西方の山中を震源とする大地震が起こり、名立(なだち)小泊(こどまり)村では南側の裏山が幅約1キロメートルにもわたって崩れ落ちました。これを「名立崩れ」と呼んでいます。寛延4年は途中で改元されて宝暦元年となりましたので、後にこの地震を「宝暦の大地震」と呼ぶようになりました。現在、「名立崩れ」は、市指定の史跡となっています。

宝暦大地震は、「高田表大地震之節日記」(榊原家文書)の冒頭に「地(ち)悉裂(ことごとくさけ)、所々水沸出(わきだし)、又ハ泥沙(でいさ)吹出(ふきでる)。依之(これにより)御城大破(たいは)」とあり、高田や直江津でも多数の死者、震動や液状化による建物全壊等の壊滅的被害を出しました。

高田を中心に諸国変災の記録をまとめた鱸(すずき)魚都里(なつり)撰「異事大概記」(弘化4年:荒町水谷家文書)によれば、高田町は「惣潰(そうつぶれ)家 弐千八拾弐軒(全壊2082軒)」「半潰(はんつぶれ) 四百拾弐軒(居住不可の半壊412軒)」等とあり、出火の被害も多く、余震は翌年正月まで続いたようです。また、名立方面については、「西浜名立有間川虫生郷津迄(まで)村々山崩ニて家々不残(のこらず)土之(の)底ニ埋る。即死人牛馬員数不知(しれず)」とあります。

地震発生の翌4月27日に名立小泊村の庄屋が新井代官所に出した「注進書」によると、村の被害は次のとおりです。

  • 民家の総家数91軒中81軒埋没、4軒皆潰(みなつぶ)れ、3軒半潰れ、無難は3軒
  • 人口525人中 死者406人(社人や僧などを除く)

「東遊記」の「名立崩」の記事(写真)ここで取り上げたいのは、「東遊記」による「名立崩」の記事(右写真)です。「東遊記」には、前編、後編、補遺も含めて、新潟県に関する17の奇事異聞が収められていますが、その中の1つとして第2巻(公文書センター所蔵)に「名立崩」があります。「うしろの山二つにわかれて海中に崩れ入り、一駅の人馬鶏犬ことごとく海底に没入す」、「家は一軒も残らず、老少男女牛馬鶏犬までも海中のみくづとなりし」と被害の大きさを伝えています。「名立崩」の全文は、次の翻刻でご確認ください。

「東遊記」第2巻の「名立崩」の翻刻 [PDFファイル/296KB]

「東遊記」の記事で不思議なのは、地震当日夕暮れから、名立のほとんどの男たちは沖に漁に出ていましたが、ふと陸地(名立)の方を顧みると、一面が赤く見えたということです。男たちは名立が大火事だと思い、急いで帰りますが、実際は何事もなく、奇妙に思いながらも無事ならばと日常に戻ります。しかし、その深夜、丑(うし)の刻(こく)、つまり午前2時ころに地震が発生したのです。

それにしても名立を包んだ赤い光は何だったのでしょうか。著者の橘南谿が「大地震すべき地は遠方より見れば赤気(あかきき)立(たち)のぼりて火事のごとくなるもの也」と記しているように、素人考えでは、裏山の内部の摩擦によって放電が起り、それはつまり前兆現象だったのではないかとも思いますが、不明です。また、この赤い光さえ見えなければ、漁を途中で切上げることはなく、少なくとも漁に出ていた人たちの命が失われることはなかったことを思うと、やるせない気持ちになります。

ちなみに予兆について、前出の「異事大概記」には、宝暦大地震の3か月前からの、後で思えば予兆だったのではと考えられる「怪事が次のとおり列挙されています。

  •  正月29日:赤雪壱(いち)寸(すん)程降申候(ふりもうしそうろう):赤い雪が3センチメートルほど積もった
  •  4月14日:夜戌ノ刻(いぬのこく:午後8時)ヨリ布雲(にのぐも)出ル、長サ二丈(じょう)余(あまり)
  •  4月中旬から:毎日烏(からす)ノ鳴聲(なきごえ)荒し竜宮の鐘(写真)
  •  4月25日(当日):日ノ色薄赤し、暮六ツ(くれむつ:午後6時)前ニ烏集リ一群ニナリテ(震源とは反対の)東ヘ飛行之事数多(あまた)也

後日譚として、この震災後数十年も経てから、沖合で怪しい音が聞こえるという噂が立ちました。大地震で多数の人が亡くなっているので、「亡霊がさまよっているのではないか」「再び天災が起こる前兆ではないか」などと恐れ、誰も近づきませんでした。それから更に百年後の明治初年のころ、勇敢な漁師が怪音の出る所に潜ってみると、海底の岩石に梵鐘(ぼんしょう)が挟まれていました。これが潮流の緩急で音を出していたのです。やっとのことで引き上げて調べてみると、地震で埋没した宗龍寺の釣鐘だと分かり、再建された宗龍寺に納められました。地元では、百数十年を経て本来の場所に戻ったのは竜宮から奉献(ほうけん)されたからに違いないと「竜宮の鐘」(右写真)と呼んで、亡くなった人々の冥福を祈りつつ、今も大切に保存しています。

夜空の怪光現象:2つの光物(ひかりもの)

紹介する2つの怪光現象の出典は、「萬見聞記(よろずけんぶんき)」(矢沢家文書:高田図書館所蔵)で、文字どおり見たり聞いたりした様々なことを書き留めたものです。時代的には、天保から文久年間、つまり19世紀中ごろです。その中から、夜空で観測された2つの怪光現象を紹介します。

「萬見聞記」の龍のような怪光の図(写真)「萬見聞記」の龍形怪光の説明文(写真)「萬見聞記」の火球のような怪光(写真)

  1. (上の左写真)夜空に満月くらいの火の玉のような光物が現れ、やがて散乱して龍のような形になったというものです。筆者が描いた図を見ると、本当に龍のように見えます。
  2. (上の右写真)菅笠くらいの丸い光物が夜空を移動し、まるで昼間のようになったというものです。こちらの特徴は、「雷地震」のように音が鳴り響いたということ、広範囲で観測されたということです。

詳しくは、「萬見聞記」の怪光現象記事の翻刻 [PDFファイル/199KB]をご覧ください。

夜間に出現する光物は、「吾妻鏡(あづまかがみ)」(鎌倉期)をはじめ、全国各地で古くから記録されています。ある時は凶兆として、またある時は神仏が現世に現れた姿として登場します。光っている物という広い概念でくくっていますので、その正体は多種多様であったと考えられます。1は、2013年にロシアで観測されたように、途中で分裂して数珠のように光りながら夜空を飛行した隕石だったかもしれません。その形は、あたかも龍のように見えなくもありません。しかし、そうだとすれば、1時間も静止しているのは説明が付きません。一方、2は、明るさや音、振動から火球だったのではないかとも考えられます。昼間のように明るくなったり、音を鳴り響かせたりする光物の記録は全国に多数残っています。ちなみに、コロナ禍で一世(いっせい)を風靡(ふうび)した「アマビヱ」(アマビコ)も、夜間に光と共に海中から現れた予言獣で、光物の一種です。

本当に実在したのか(はてな):「鮒井雑記」等に登場する巨大生物の記録

「鮒井雑記」のウワバミの記事(写真)「鮒井雑記(ふないざっき)」(公文書センター所蔵)の著者:竹尾民右衛門は、榊原高田藩士です。内容は、享和2年から天保7年ころまでの、19世紀前半の江戸や国元の高田を中心とした見聞録です。「鮒井」とは、著者が当初は江戸詰めで、江戸で著作したことから「府内(江戸府内)」と考えられています。その第8巻に、「己丑(きちゅう)五月上山クグノ村にてウハバミ溺死之事」という記事(右写真)があります。「己丑」とは文政12年(1829年)で、「クグノ村」とは久々野村で今の板倉区にあった村です。蛇足ながら、「ウハバミ(本文ではウワバミ)」とは、大蛇のことです。

「鮒井雑記」のウハバミの記事の翻刻 [PDFファイル/265KB]

記事によれば、その年の5月24日、大雨により久々野村で起こった山崩れに大蛇が巻き込まれて死に、川を流れ下って来たそうです。驚くべきは、その大蛇の巨大さで、長さが「八間(けん)」とありますから、約15メートルということになり、胴回りが「八尺(しゃく)」で約2.5メートルとなります。映画の世界においては有り得ることですし、アマゾン等ならもしかしてとも思いますが、本当に日本、しかも上越にそのような巨大生物が実在したのでしょうか。

「鮒井雑記」の筆者は、友人が江戸で長さ7間の大蛇全骸の天日干しを見た話、別の友人が「鯨さし弐尺(約75センチメートル)」の大蛇頭骨を見た話も載せており、多少の誇張はあるにせよ、現在では考えられない大きさの大蛇が存在したのでしょう。

後述する猫型巨大生物「猫また」も、その正体は何だったのか興味は尽きません。また、後掲する「高田新聞」には「丈(たけ)は八尺許(ばかり)なれど、最(い)と恐ろしき手足あり耳もある大蛇」という明治16年(1883年)の記事もあります。これは普通に考えれば大蛇というよりトカゲでしょう。しかし、本当に8尺、つまり約2.5メートルの大トカゲが、約140年前の上越に実在したのか、こちらも興味が尽きません。その他の新聞記事では「白蛇」等も紹介していますので、後ほどご覧ください。

高田生まれの妖怪:「絵本 百物語」から「小豆洗」

「絵本百物語」の「小豆洗い」(写真)竹原春泉画「絵本 百物語」は、天保12年(1841年)に発刊された、「桃山人夜話(とうさんじんやわ)」とも呼ばれる全5巻の妖怪画集です。この書名に覚えがなくても、紹介されている妖怪画を見れば、多くの方が見知っているものばかりです。例えば、「小豆洗」という妖怪を、多くの方はご存知でしょう。そして、イメージするのは右写真の姿のそれではないでしょうか。右は、「絵本 百物語」で36番目に紹介されている「小豆洗」です。同書は鳥山石燕(とりやませきえん)の「画図百鬼夜行(がずひゃっきやこう)」(安永5年:1776年)と並び称される江戸時代を代表する妖怪画集です。

小豆洗は、柳田国男が、不思議なことにおらぬ所がないほど分布が広いと語るように、全国区で知名度の高い妖怪で、「小豆磨ぎ」等とも呼ばれます。多くは、川の端でショキショキと音をさせながら小豆を洗う姿の見えない妖怪という伝承で、時には「小豆磨ぎましょか、人とって食いましょか」などと言って驚かすとも言われています。「新潟県史」でも、「アズキ洗おうか、ザックザック、人とってかもうか、ザックザック」と驚かす十日町市の伝承を紹介しています。その正体についても全国各地で諸説あり、「新潟県史」では、「イタチが尻尾で出す」(小国町)、「ワイサコキ(いたずら)イタチの仕業」(十日町市)との伝承を紹介しています。

その数ある伝承の中から、「絵本 百物語」では、小豆洗の誕生譚として、高田を舞台とする伝承を紹介しています。高田の、とある寺院で殺された小坊主の死霊というものです。みなさんは、小豆洗が高田で生まれたという話をご存知だったでしょうか。

どのようにして小豆洗が生れたのか、詳細は、「絵本百物語」の「小豆洗」の翻刻 [PDFファイル/226KB]でご確認ください。

その他、上越の妖怪としては、橘崑崙(たちばなこんろん) 著「北越奇談」(文化9年:1812年)には、高田藩領の信越国境に出現する「山男」が記されています。また、「上越市史」では、「北越奇談」で越後十七不思議に挙げられている「蓑虫(みのむし)の火」を昭和30年代に体験した津有地区の人の話、鳥山石燕著「画図百鬼夜行」の「青鷺火(あおさぎのひ)」を保倉地区の何人もの人が目撃した話を紹介しています。後掲する新聞記事では、狐や龍なども紹介していますので、ご覧ください。

正体不明の猫型巨大生物:中ノ俣の猫又(ねこまた)

天和2年(1682年)に中ノ俣で出没し、人を襲った猫型巨大生物:猫又の退治譚をご存知の方も多いでしょう。当時は、高田が最も栄えたとも言われる松平光長による高田藩が改易された翌年で、幕府から命ぜられた大名が交代で高田を守衛した、いわゆる在番時代です。

猫又に関する記録は、古くは藤原定家による「明月記」(鎌倉前期)や吉田兼好による「徒然草」(鎌倉後期)にも登場し、人を襲ったとあります。出没場所は、全国各地に伝承が残っており、榊原高田藩領の飛地である奧州釜子(かまのこ)陣屋領内でも安政4年(1857年)の出来事として「凡(およそ)小馬之(の)如(ごと)き猫を打取(うちとり)申候(もうしそうろう)」(青木家文書:高田図書館蔵)との記録が遺っています。

中ノ俣の猫又に関する記録も複数遺っており、いくつか相違点は有りますが、武士による討伐隊が討ち取れなかった猫又を、力持ちである村人:(牛木)吉十郎が病身を押して立ち向かい、最終的には双方共に果てたという点、時は天和年間である点等は共通しています。

猫又退治記(写真)ここで取り上げる頸城郡誌稿関係資料「乍恐(おそれながら)以書付(かきつけをもって)申上候(もうしあげそうろう)」(右写真:公文書センター所蔵)の作成年は、延享5年(1748年)と記されています。つまり、事件発生から65年後、高田へ入封したばかりの榊原家が猫又退治について聞き付け、それに関する問合せに中ノ俣村が回答した文書と考えられます。同書によれば、「猫また」の体長は「九尺」(約2.7メートル)で、毛は漆が塗られているように刀が立たないとあります。「貍(ねこまた)實説(じつせつ)記」(作成年不詳:橋本正富美家文書:公文書センター所蔵)では、体長「九尺四寸」(約2.8メートル)と、いずれにしても猫型生物としては巨大です。猫又の正体は何だったのか、村人を困らせる悪党、虎、狼、熊など、様々な推量がなされましたが、謎は尽きません。

中ノ俣の猫又退治譚の詳細は、猫又退治記の翻刻 [PDFファイル/289KB]でご確認ください。

なお、退治された猫又の死骸は、同書では「玄蕃長屋」に埋めたとありますが、現在の土橋稲荷神社(右写真:大町1丁目)がその場所だと伝承されています。同地は榊原時代に「土橋長屋」という下級武士の長屋があった場所であり、「玄蕃長屋」とはそれを指すのでしょう。同社は後に「猫又稲荷」とも呼ばれるようになり、「猫が迷子になつた時、猫俣稲荷に願をかければ必ず出て来ると云ふので愛猫家の参詣者があるそうだ」と「高田新聞」(昭和4年6月2日)は伝えています。

参考までに、高田市が発行していた「広報たかだ」に、中ノ俣の猫又退治の記事がありましたので、添付しておきます。土橋稲荷神社(猫俣稲荷)の写真

「広報たかだ」昭和38年2月1日発行 第138号 [PDFファイル/209KB]

「広報たかだ」昭和38年3月1日発行 第139号 [PDFファイル/842KB]

郷土の新聞が伝える怪異の世界

下に添付したのは、明治16年(1883年)から昭和17年(1942年)にかけての「高田日報」、「高田新聞」、「上越新聞」、「新潟日報」の記事ですが、内容的には江戸時代からの伝承も含まれています。ここに挙げたもの以外にも大蛇をはじめ大鯉、大鮒、大蟹、大亀等の巨大生物、龍をはじめとする空想上の獣、神仏あるいは妖怪、心霊がかかわったかのような説明のつかない不可思議な出来事等が、よく掲載されています。

当時は、自然科学が今よりも解明されておらず、神仏が今よりも実存的であり、人工的な明かりが少なく夜は真暗になります。人々にとって怪異の世界は、存在していてもおかしくはなく、完全に信じているわけではないが否定しきることもできない、並存しているかもしれないと認識していた世界だったのではないでしょうか。

上越の怪異を取り上げた記事 [PDFファイル/1.71MB]

今回は、上越に伝わる歴史資料の中の、あるいは上越が舞台の怪異を取り上げ、紹介しました。本展示で紹介した怪異は、その当時に現在の科学水準があれば、論理的に説明できる現象であったかもしれません。また、伝承に誇張があるかもしれません。しかし、全部が全部、そうであったとは言い切れないのではないでしょうか。

そのような不可思議な現象に対して落としどころを設けて納得したい、そうしないと落ち着かないと考える人間としての性(さが)は、今も昔も変わらないはずです。現在の人にとってその手段は科学になりますが、昔の人にとっては、人知の及ばない神仏や怪異を実在するものと想定することでしか解決できなかったのではないでしょうか。その意味で、当時の人にとって怪異や異界が存在することは当たり前であり、リアルそのものです。そして、都市伝説が今なお再生産され続ける現代社会は、当時との温度差はあれ、その延長線上にあるように思います。

怪異の話題に怖い思いを抱きつつ、一方で覗き見たい、場合によっては信じたいと思う現代人の感性には、何でも科学で割り切ることを合理的と考えながらも、そうではない見方や考え方を完全に捨て去ることの愚を漠と感じているからなのかもしれないと、今回のテーマを考察しながらそんな感想ももちました。

このページに関するお問い合わせ先

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