令和5年の1月号から、「広報じょうえつ」の題字が変わりました。52年に及ぶ「広報じょうえつ」の歴史の中で、6代目の題字になります。今回は、歴代の題字を紹介しながら、「広報じょうえつ」のあゆみを振り返ります。
初代題字の頃の広報紙
左から
昭和46年4月29日、高田市と直江津市が合併して上越市が発足しました。翌月に「広報じょうえつ」の第1号が発行されます。それからの約2年間、表紙を飾った題字です。当時の職員がデザインしたものでしょうか。詳細は伝わっていませんが、手作り感あふれる、味のある題字です。
1号には、新市の紹介や市役所の配置情報、予算説明などの他、この後10年に及ぶ連載「郷土・歴史散歩」や、現在まで続く「カメラスケッチ」の第1回目も掲載されました。20号(昭和47年12月15日)からは、市民参加コーナー「いんたびゅう」も始まりました。
この頃の「広報じょうえつ」は、合併前の両市で発行されていた「広報たかだ」や「広報直江津」と同じ月1回の発行でした。また、本紙の配布とは別に、町内会の班で回覧する「広報じょうえつおしらせ版」があり、行事や予防接種などの日程と、月1回の「広報じょうえつ」では間に合わない連絡事項が掲載されていました。
広報じょうえつおしらせ版第1号(昭和46年5月25日)
掲載内容:「浄水場を見学しよう」「6月6日は県民スポーツの日」「歯の無料検診と相談」「初夏の南葉山へ登ろう」「中小企業の皆さんへ 設備貸与制度のご利用を」「季節旅館の育成改善資金」「家内労働手帳の普及を」「刑務官を募集してます」「おしらせ版、読まれたらすぐお隣りへ」
広報じょうえつおしらせ版第63号・最終号(昭和48年3月25日)
掲載内容:「4月から工場騒音などを調査」「総合博物館 江戸時代の和時計展」「狂犬病予防注射と登録」「高城婦人学級を開設」「銃砲刀剣登録審査会」「おしらせ版、今回で終わりに」
これは本紙の1号に掲載されていた記事です。
当時は書く必要もなかったのだと思いますが、いま読むと「では、ピーポー音の前は何だったのか」と大変気になるところです。
2代目題字の頃の広報紙
左から
「広報じょうえつ」誕生から2年を経て、昭和48年度からは班回覧の「広報じょうえつおしらせ版」を廃止し、本紙を月2回発行することになりました。合わせて題字も2代目に変わります。2代目題字は、28年間、620号に亘って使用されました。これは歴代の題字でも最長です。昭和から平成に変わるなど、世の中にもいろいろな変化がありました。
171号(昭和54年9月1日)で初めて表紙がカラーで印刷されました。以降、不定期ながら表紙にカラー印刷が使用されるようになります。平成5年からは、年始の1月15日号の表紙がカラーになるのが恒例になります(ただし、平成6年と9年はモノクロです)。
2代目題字のカラー表紙
左から
行政文書がB判からA判へと変わる流れの中で、「広報じょうえつ」も506号(平成6年4月1日)からA4判になりました。読みやすさを考慮して文字も大きくしています。
この頃から情報量が増え、全体的にページ数が増加し、類似の情報をひとくくりにして、情報を探しやすくする工夫が見られます。市政に関する情報は「市政ニュース」に、告知関連の情報は「お知らせ広場」というようにコーナー化されました(「市政ニュースは690号(平成14年4月1日)から「市政トピックス」に名称が変わり今日に至ります)。
3代目題字の頃の広報紙
左から
643号(平成12年3月15日)に「大きく見やすく」と予告されたとおり、644号からタブロイド判(新聞の半分のサイズ)になりました。同時に表紙と裏表紙が毎号カラーに、内面は2色刷りになるなど、誌面の大幅な変革がなされます。3代目は、カラーを前提として作られた初の題字です。この題字が使用された2年の間に、世界は21世紀に突入します。
徐々に大きくなった広報紙。左から、B5判、A4判、タブロイド判。
市民へのインタビュー「ホップステップJump」や、グループ紹介記事「広がれネット」などの新コーナーも作られました。また、「お知らせ広場」は「情報ファイル」に名称が変更され、今日に至ります。
687号(平成14年2月15日)に掲載されたアンケート結果によると、紙面を大きくしたことにより「ページをめくらず、1面で記事を読むことができて、読みやすくなった」という評価がある一方で、「A4判の方が読みやすい」「保存しにくい」「配りづらい」などといった意見が多く、新年度からA4判に戻すことになりました。
4代目題字の頃の広報紙
左から
4代目題字の頃が、最もページ数が多かった時代です。特集記事などが掲載される1日号と、告知記事中心の15日号「お知らせ版」に機能分化され、表紙も1日号はカラー、15日号は2色刷り(平成15年度以降はモノクロ)とメリハリがつけられました。題字は3代目と同じくカラーを前提としたものですが、4代目以降は、毎号文字の色を変えて使用されています。
平成17年1月1日に14市町村が合併し、新上越市が誕生しました。その3年後の平成20年4月に、1カ月のページ数(1日号と15日号の合計)が「広報じょうえつ」史上最多となる62ページに達します。これは1号の16ページと比べると、4倍近い数字です。この後、平成21年度までの間に、1カ月62ページという月が4回ありました。
808号(平成19年5月15日)で、初めて市民カメラマンが募集されました。作品の初掲載は813号(平成19年8月1日)の「カメラスケッチ」です。この頃はまだモノクロでした。
市で携帯電話対応ホームページを開設し、809号(平成19年6月1日)で紹介されました。このとき初めて紙面に2次元コードが登場します。当初2次元コードの使用は限定的でしたが、徐々に他の記事での使用も多くなっていきます。5代目題字の時代に急速に進む電子化の萌芽がこの頃に見られます。
876号(平成22年5月1日)で、ついに全面カラー刷りになります。これ以降、1日号は全面カラーとなります(15日号は全面モノクロのままでした)。
5代目題字の頃の広報紙
左から
令和4年末までの11年間、表紙を飾ってきたなじみ深い題字ですが、周辺市町村を見渡しても漢字の題字は意外と珍しかったりします。デザインは、上越市シティ・イメージ・アドバイザーを務められた故・柴田長俊氏です。5代目題字の間に平成から令和に変わりました。また、電子化の進展などといった社会の変化により、紙面にも大きな変化が見られた時代です。
1011号(平成28年4月1日)から、「広報じょうえつ」のネット配信がはじまりました。1102号(令和2年7月1日)ではLINEとTwitterの市公式アカウントが、1108号(令和2年12月25日)ではYouTubeの市公式チャンネルが紹介されるなど、情報発信の電子化が進みます。
情報量が増大する一方で、市民の情報収集手段が多様化するなか、2次元コードの活用などで情報を整理し、より見やすい紙面構成にするなどの改善が行われました。各世帯への配布に係る町内会関係者の負担軽減のため、掲載内容の見直しなどでページ数の圧縮も図られ、月2回発行していた広報は、1099号(令和2年4月1日)以降、月1回の発行となりました。
6代目題字の頃の広報紙
左から
より親しみを持ち、読んでみたくなる広報紙にするため、初めてタイトルロゴを一般公募しました。応募43作品の中から採用されたデザインも、市民投票により決定しました。最多票を獲得したのは金井遥南さんの作品です(詳しくは令和5年の広報1月号をご覧ください)。
この新しいロゴとともに、「広報じょうえつ」はどのような時を刻んでゆくのでしょうか。
広報ではたびたび市民へのインタビューがコーナーとして連載されてきました。
「いんたびゅう」20~67号(昭和47年12月15日~51年3月1日号)
「頑張れ上越人」506~606号(平成6年4月1日~10年8月1日)
「ホップステップJump」644~734号(平成12年4月1日~17年3月1日)
「われらグループ」70~239号(昭和50年4月15日~57年8月15日)
「広がれネット」644~826号(平成12年4月1日~20年3月1日)
「見つけたふるさと町愛所」828~941号(平成20年4月1日~25年3月1日)
「上越再発見 私はここが大好き」346~362号(昭和62年4月15日~12月25日号)
「見て 聞いて 参加して」607~643号(平成10年8月15日~12年3月15日)
「つながるひろがるオタカラ自慢 上もん」876~1017号(平成10年8月15日~12年3月15日)
「輝く市民のチカラ つな郷上越」1019~1070号(平成28年8月1日~30年12月1日)
趣向はさまざまですが、いずれのコーナーにもその時々の市民の声が刻まれています。また、近年では特集記事などで、市民の声を聴くことができます。
1号から現在まで続く唯一のコーナーですが、実は合併前の「広報たかだ」から引き継がれたコーナーでした。813号からは市民カメラマンの写真も掲載されています。初代のロゴは「広報たかだ」から引き継がれたもので、カメラのシャッターがモチーフになっています。現在のものは、690号(平成14年4月1日)から使われており、フィルムがモチーフです。この頃はまだ「カメラといえばフィルム」であったことが窺われますね。
シャッターをモチーフにした初代カメラスケッチロゴデザイン
フィルムをモチーフにした現在のカメラスケッチロゴデザイン
市民カメラマンが撮影し、広報上越に掲載した紙面は、「市民カメラマン活動記録展示」として、令和5年3月22日から4月12日にかけて、オーレンプラザを会場に展示されました。
「広報じょうえつ」の題字の変遷をご紹介しましたが、そこにはロゴデザインの変化に留まらないさまざまな時代の変化を見ることができました。広報紙は「いま」の人々に向けて作られているものですが、その「いま」も積み重なると貴重な資料になることが分かります。過去の「広報じょうえつ」は、すべて公文書センターで閲覧することができます。また、高田図書館や直江津図書館でも一部を除いて閲覧が可能です。ぜひ一読してみてはいかがでしょうか。
広報じょうえつ年表 展示パネル [PDFファイル/279KB]
高田公園にトラがいた 展示パネル [PDFファイル/481KB]
A.本当です。
「広報たかだ」と「広報じょうえつ」に、高田公園のトラの記事が掲載されています。
「広報たかだ」136号に 昭和37年11月9日に2頭のトラが高田公園へ来たという記事があります。そのうち1頭が先に亡くなり、残りの1頭は昭和50年4月8日に死去しました。
「広報たかだ」136号(昭和37年12月1日)
「広報じょうえつ」70号(昭和50年4月15日)
昭和38年 高田市広報担当課撮影