上越地域での酒造業の歴史は古く、旧版高田市史によれば、17世紀初頭の高田藩で城下の酒屋72軒に専売権を与え保護する政策を行った記録があります。高田の周囲に酒造が許可されたのは、高田藩の統制が緩和された頃であり、頸城区には宝暦4年(1754年)の酒造株の譲渡証文が残っていることから、18世紀半ばには酒造りが盛んに行われていたと考えられます。頸城区の酒造家数は、慶応3年(1867年)には7軒でした。
一方、新潟県の酒造出稼ぎは江戸時代初期の元和年間(1615~1622年)に始まっていたとされ、400年間にわたり続けられられきました。そして、近代には全国の酒造出稼ぎ者の四分の一を新潟出身者が占めるほどになっていました。新潟県内でも特に上中越地域出身者が多く、昭和39年(1964年)の調査によると酒造出稼ぎの87パーセントが三島郡、刈羽郡と柏崎市、旧中頸城郡出身者でした。頸城区の酒造出稼ぎは大正9年(1920年)から年々増加し、大正14年(1928年)には510人を数え、頸城杜氏の名を全国に知らしめました。
酒造りの仕事は、優れた技術を備えた技能出稼ぎによって支えられてきました。このことについて中村豊次郎は、「酒男出稼ぎは、他の出稼ぎ業種と異なった特異性を持っています。即ち、多分に手工業的設備の残る酒蔵で、微妙な変化を続ける麹菌や酒母(もと)の育成を中心とした、醸造工程を経験とカンを頼りにこなす、特殊な作業に従事する、技能出稼ぎです」と記しています。(中村「酒造りの今昔と越後の酒男」野島出版、新潟、1981 124ページ) この「技能」という言葉が示す通り、酒造りの技術は研ぎ澄まされた感性と創造力を必要とする「Art(技術)」であると同時に、まさに「Art」(芸術)の創造行為と共通の豊かな感性を必要としたのでした。(文:上越教育大学教授 茂手木潔子)
伝統的な酒造工程には必ず唄がつきものでした。その理由は、歌うことで作業する動きを揃えたり、唄に要する時間によって作業時間を計ったり、歌詞で湯や水を運ぶ桶の数を量ったりするからでした。酒蔵に伝わる「唄半給金」と言うことばが唄の重要性を示しています。このような、仕事と切り離せない唄の存在は世界的にもめずらしく、ワインを造る時にも、ビールやウイスキーを造る時にも、酒造り唄のような役割を持つ唄はないらしいそうです。だから、江戸時代から明治初期にかけて日本を訪れたモ-ス、ケンペル、フィッシャーなど欧米の人々がこぞって日本の仕事唄に魅きつけられ、その様子を日記や絵画に残しているのもうなずけます。
現在、頸城の蔵人たちが伝承している唄には、「桶洗い唄」「流し唄」「もとすり唄」「荒櫂(あらがい)」「二番櫂(にばんがい)」「数番唄(かずばんうた)」などがあります。
酒造り唄の歌詞には、もともと作詞されたものがあったわけではありません。いつの間にか歌い継がれてきた歌詞や、気に入られて多くの蔵人が歌ったために同じような歌詞で固定したものなどが中心です。さらに、厳しい作業工程における唄の役割は、自分自身の気持ちを励ますためや家族と離れて暮らす寂しさを紛らわせるため、また眠気を振り払うためであり、生きるために歌われた唄であったから、仲間内だけに通じる歌詞や、恋愛をあからさまに歌った歌詞など様々な歌詞が存在し、こういった歌詞の多くは記録されてきませんでした。
しかし、その様な記録されない歌詞こそ身体に刻み込まれている歌詞でもありました。酒造り唄のもう一つの魅力は、唄の区切り区切りにソロ(音頭)の歌い手と囃子を歌う仲間が交互に掛ける掛け声です。「ドシタイ ドシタイ」「キテクレヨ」「ハー チョイチョイ」など、仕事の連帯意識をますます強めるような素敵な掛け声をふんだんにちりばめたこの唄には、どんな民謡にも勝る魅力があり、聞く人々の心に感動を呼び起こします。(文: 上越教育大学教授 茂手木潔子)
この唄は、早朝にその日の仕込みのための道具類(櫂玉、麹蓋など)を洗う時の唄です。一人づつが順番に歌う唄であり、唄のテンポはササラを持って道具を洗う動きのテンポから作られ、旋律はそれぞれに好きな旋律で歌い上げます。一人ずつ歌う唄なので、拍子も自由に引き伸ばして歌われます。そして一人が歌い終わるころに次の歌い手が歌い出すこともあり、その2人の声の重なり具合が唄の魅力を倍増します。
(流し唄歌詞)
この唄は、3~4人の動きを揃えるためと、もとの攪拌時間を計るために歌われたもので、拍節的な唄です。まず、音頭役が前半の2句を歌い、囃子が後半の2句を歌います。作業を止める時は、5番の歌詞のように「だれもどなたも」と歌い出すと、これで終わりということが皆に伝わる仕組みになっています。このように、共同作業の時には終わりを知らせるための歌詞があり、音頭取りは攪拌具合を見てこの歌詞を歌い出しました。 「もとすり唄」の歌詞には、東海道や中山道を歌ったものなど道中歌があり、街道の宿場名で「今日はどこどこまで」と指示されて攪拌の時間が計られました。
(もとすり唄歌詞)