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大潟の偉人

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印刷用ページを表示する 掲載日:2014年11月26日更新

僧温(そうおん)

渋柿浜の専念寺に生まれる。名を慧麟(えりん)といった。のちに僧温と改名し、文政6年(1823年)、新井の姫川原の正念寺の住職になった。
正念寺は3代続いて京都西本願寺の勧学になった寺である。温も勉学に励んだため、勧学(現在の龍谷大学の教授に当たる)に出世した大学者である。生涯の間に『大経講録』など、たくさんの仏教書を著した。 

笠原文右衛門(かさはらぶんえもん)

笠原文右衛門の画像 
大川笠原君墓碣銘の画像 大川笠原君墓碣銘

田村新田(現在、潟田)に生まれ、江戸へ行って昌平校に学んだ。ここで、経史(儒教や歴史)を勉強して立派な学者となり、大川と号した。
田村へ帰って、自宅を開放して塾を開き、大肝煎という忙しい職をしながら、近郷近在の人々を教育し、地方文化のために尽くした。文右衛門はまた、天保6年(1835年)に下増田村(頚城村)の大竹給左衛門らと協力して、新堀川開さくに成功して、200年も水難に苦しんだ、大潟新田24か村の農民を救い、新堀川の維持保全を図った。
大川笠原文右衛門に学んだ人は、大潟町はもちろん上越市・吉川町・頚城村・東頚城郡などに多数いるが、中でも潟町の医師杉田玄作は優れた人である。

田中謙吾(たなかけんご)

田中謙吾肖像の画像
田中謙吾肖像

田中謙吾和算免許皆伝書の画像
田中謙吾和算免許皆伝書

田中謙吾は、潟町の元郵便局田中家の先代で、幕末のころ和算家・測量家として名をあげた人である。
成人して江戸へ出て、有名な関流の和算家長谷川善左衛門寛について、数学・測量術を学んだ。成績が抜群であったので、数学の免許皆伝、測量術の免状を受けた。
謙吾は江戸にいて、砲術の大家高島秋帆について、砲術を学んだともいわれている。
ペリーの来航した嘉永6年(1853年)の晩秋に、秋帆の西洋砲術・調練に関する、長い絵巻物を一筆筆写している。
これは、カラー絵の珍しいもので、歴史参考資料としても大切なものであり、田中家に秘蔵されている。
謙吾は学者であったから、「縫老余算統衍解」という和算の本を何巻か著したが、それは原稿のままになっている。謙吾は直江津の和算家小林百哺と同じ系統の優れた学者であったが、田舎に引っ込んだので、知られなかったのである。

杉田玄作(すぎたげんさく)

玄作は幕末から明治初期の潟町の医師。少年のころ、田村の笠原大川の塾へ通って、漢学・数学・歴史を学んだ。その後江戸で医学を学ぶ。郷里へ帰り、杉田家の四代目を継ぐ。玄作は内科が得意で、患者が群集して、上越の名医となった。高田藩にはお抱えの医者が数人いたが、玄作はご典医を命ぜられ、殿様(榊原政敬)の診察に、たびたび高田まで出掛けた。
玄作はまた、まじめな学者であった。その日その日の日記を記し、自家のことはもちろん、広く社会の出来事まで記した。明治5年(1872年)の日記には「申稿録」と題してあるとおり、そのまま歴史のよい資料でもある。これによって、音楽家の小山作之助が、玄作の甥であったことが知られる。学制の頒布に当たり、初代潟町校長になった。

杉田玄作の筆跡画像 杉田玄作の筆跡

笠原克太郎(かさはらこくたろう)

文右衛門の長男。父の厳格な教育を受け、明治6年(1873年)大肝煎内山郁太郎と協力して、土底浜(犀潟小学校の前身)を設立した。
明治11年(1878年)高田の庄田直道らと、高田に第百三十九国立銀行(のちに第四銀行に合併)を設立、頭取となる。第百三十九銀行が発行した珍しい紙幣には笠原克太郎と記名してある。また、明治15年(1882年)ころから鉄道開発に目をつけ信越鉄道株式会社を設立するが、信越線は政府が実施することになる。明治21年(1888年)、東海道線より1年も早く開通するきっかけとなる。明治31年(1898年)衆議院選挙に自由党からでて当選する。
笠原克太郎の墓の画像
笠原克太郎の墓

田中謙五郎(たなかけんごろう)・内山郁太郎(うちやまいくたろう)

田中は潟町組22か村の、内山は土底組15か村の大肝煎で、幕末明治維新には北越戊辰戦争のため、官軍の兵糧・弾薬輸送や物資の供出、夫人足の割当などに大変苦労した。
また明治5年(1872年)、学制の頒布により、田中は潟町校の、内山は土底校(のちの犀潟小学校)の設立に苦心した。

笠原恵(かさはらめぐむ)

笠原恵の画像

頚城郡下田村に生まれ、伯父克太郎の養子として笠原家に入った。祖父大川の教育を受ける。のちに上京し福沢諭吉の慶応義塾に学び明治11年(1878年)卒業し帰宅する。祖父大川の塾で、英語など新知識を広める。
再度上京し、福沢諭吉の下で働く。福沢とは丸善書店も開く。明治21年(1888年)フランスへ洋行する。

笠原恵あげ福沢諭吉の手紙の画像 笠原恵あて福沢諭吉の手紙

小山作之助(こやまさくのすけ)

小山作之助の画像 

明治・大正時代の有名な音楽家。潟町に生まれる。小学校を卒業後父の事業を手伝いながら夜学に通い漢学・国語・歴史などを勉強した。明治13年(1880年)上京し、働きながら築地大学(明治学園大学の前身)へ入学し、英語・数学を専攻した。そのころは、まだ日本に音楽が発達していなかったので、小山は音楽で身を立てようと思い、明治16年(1883年)文部省の音楽取調掛(東京音楽学校の前身)に入学。卒業後も研究生として残り、東京府立唱歌伝習所の講師もつとめた。翌年東京府立師範学校に奉職し、明治25年(1892年)東京音楽学校の専任助教授となる。それ以来、初代東京音楽学校長伊沢修二と親しく交わり、伊沢を助けて日本音楽会のために生涯尽力した。
明治30年(1897年)には、同校教授となり、正八位高等官八等に叙せられた。明治36年(1903年)退職するが、その後も音楽の研究は旺盛で、文部省小学唱歌の作曲をしながら、たくさんの「唱歌集」を著した。また日本の楽器製作技術が幼稚だったので、山葉楽器会社の顧問となって、製作技術の指導をした。その他東京の国立音楽大学をはじめ、東洋音楽大学その他各音楽大学の創立に尽くした。
大正13年(1924年)、東京音楽学校の講堂で盛大な還暦祝賀会が開催され、「小山先生還暦祝賀会の歌」まで作られて、満堂合唱した。65歳で急逝すると、明治神宮外苑の日本青年会館で、日本の有名な音楽家総動員で、盛大な音楽葬が行われた。
最後に、小学唱歌「荒城の月」で有名な瀧廉太郎(1880~1903年)を育て上げたのは小山であり、彼に日本で最初の音楽修業のため、ドイツ留学を推薦したのも小山であることを知る者はあまりない。小山が作曲した小学唱歌「夏は来ぬ」「漁業の歌」はよく知られ、歌われている。だが、

松原遠く 消ゆるところ 白帆のかげは浮かぶ

という「海」の歌は、小山が故郷大潟町の海岸の景色を、自ら作詩・作曲したことを知る者がないのは、大潟町のため残念なことである。

漁業の歌の画像 漁業の歌

藤縄芳謙(ふじなわほうけん)

藤縄芳謙の画像 

土底浜に生まれる。明治22年(1889年)、24歳の若さで犀潟村議会議員になったのを契機に、犀潟村助役、犀潟村長となる。
この年、県では町村合併を進め、犀潟村・潟町村合併について難題が山積みする中合併にこぎつける。学校問題についても積極的な取組をみせる。この政治手腕をかわれ、明治44年(1911年)中頸城郡会議員に当選し、議長に推挙される。
潟町村・犀潟村が合併して、潟町村となり、さらに大潟町に発展してきた基盤作りをした人物といえる。

小池仁郎(こいけにろう)

小池仁郎の画像

下小船津浜の酒造業家に生まれる。明治12年(1879年)新潟師範学校を卒業、北海道で漁業をしている叔父の養子になる。叔父の没後根室市の問屋漁業家の従業員になるが、その間、根室市の宣教師カーペンターについて、熱心なクリスチャンになった。それは、信仰もさることながら、近代漁獲法は洋書の勉強をする必要があったことから英語を習いたかったに違いない。
28歳で北海道に漁場の権利を得て、漁業の経営をはじめた。明治36年(1903年)、鮭・鱒の増殖を図るため、孵化事業に取組む。川に通じている北海道各地の原野を踏査して、ついに西別川上流に「鮭・鱒孵化場」を設立、その他7カ所を新設する。
この鮭・鱒孵化場の設置から、その増殖・品質の改良を実践したことは、日本の漁業界に特筆すべき功績である。
開拓精神に富んだ仁郎は、進んで日本漁民のために、政界で活躍しようとし、大正4年(1915年)衆議院議員となり、産業界に尽くした。昭和6年(1931年)犬養内閣のとき、通信政務次官まで昇進した。

内藤善太郎(ないとうぜんたろう)

内藤善太郎の画像

潟町の、回船業と米穀商を営む家に生まれる。父は幼くして亡くなり、苦労の多い人生を歩み続けた。
教育に熱心で、福沢諭吉を信奉し、努力を惜しまなかった。
善太郎は、村議会議員や学務委員の職に長く携わり、教育関係に資材を投じて潟町小学校の充実に意をそそいだ。
また、優れた教員の確保にたゆまぬ努力をした。

藤縄ヒサ(ふじなわひさ)・古川フジ(ふるかわふじ)

藤縄ヒサの画像 藤縄ヒサ    古川フジの画像古川フジ

フジは土底浜の藤縄正朔の4女、ヒサは5女として生まれる。
正朔は、女子教育の大切さを痛感し、フジを長岡女子師範学校へ、ヒサは東京渡辺裁縫女学校高等師範科に学ばせた。明治37年(1904年)高城村に女子裁縫女学校を創設、初代校長に当時18歳のヒサを充てた。県内ただ一人の女校長として手腕を発揮した。開校当時の学級編制は普通科(2か年)普通速成科(6か月)、高等速成科(6か月)で生徒数は33人であった。翌年旧高田中学校校舎に移転、更に41年(1908年)下寺町善行寺境内に校舎を新築、以後の学園発展の基礎を築いた。
結婚により東京に去ることになったヒサの後を受け、大正2年(1913年)から姉のフジが第2代目の校長となる。フジもまた生徒の育成に努めた。
校長住宅は、生徒の寄宿舎と廊下で結ばれていたので、生徒達は日常の起居作法一切についてフジの教えを受けたという。
手芸・裁縫の専門学校として、その実績は高く評価され、当地域からも多くの女子が同校に学んだ。

石井乙麿(いしいおとまろ)

石井乙麿の画像

南魚沼郡塩沢町の平等寺に生まれる。父は僧侶ながら熱心な教育家で塩沢小学校を創立して初代校長になった。石井は大勢の兄弟の末弟であったためか、教師になるに必要な師範学校などへ進学することは許されなかった。
しかし、乙麿は一生懸命勉強し代用教員から東頸城郡奴奈川村峠小学校の校長まで栄進した。
石井は家族を連れて潟町駅付近に移住し、潟町小学校で勤務した。退職後は、選挙管理委員長などを引き受け町のために尽力した。
乙麿の功績は、大潟町文化財調査審議委員長としての活動である。これまでだれも手を着けなかった町の文化財の発掘、旧家の古文書の調査、伝説の収集を行い、新聞・雑誌・町の広報などに発表して、大潟町の歴史を明らかにしようとしたことである。

藤縄清治(ふじなわせいじ)

藤縄清治の画像

土底浜の酒造家に生まれた。県立高田中学校を優等で卒業したが、病弱のため大学に進むことができなく、家業を継いだ。
やがて政界に乗り出し、村会議員、潟町村長、県会議員、県会議長まで栄進した。
清治が大潟町に尽くした功績は数々あるが、特に、新堀川排水工事を完備したこと、犀潟に京都から第一工業製薬株式会社を誘致し工業都市化の第一歩としたことや、帝国石油株式会社に天然ガスや油田を開発させて、大潟町の名をとどろかせたことにある。

(参考文献:昭和63年5月30日発行 大潟町史)

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