坂口謹一郎博士は折に触れ、その時々の心情を歌に詠んでいます。 その数多くの歌は奔放で、かつ風格があり、歌人としての才能も高く 評価されています。
昭和33年の歌集「醗酵」、昭和61年の「愛酒楽酔」は、その代表的なものです。
敗戦が色濃くなった頃、博士は研究所の疎開に伴い、父祖の地である頸城区鵜ノ木に移り住むこととなりました。後年、博士は酒づくりと雪椿に縁の深いこの地にちいさな家を造りました。これを「楽縫庵(らくほうあん)」と名付け、地元の頸城杜氏や雪椿保存会との交流の場として利用しました。
楽縫庵での博士は、厳しい研究者の衣を脱ぎ、ゆったりとした人間味溢れる時を過ごしていました。訪れる人々と囲炉裏を囲み、酒談義を繰り広げたり、雪椿を愛でながら、泉が湧き出るように多くの歌を詠み、客人に送ったといいます。
「うま酒は うましともなく飲むうちに 酔ひてののちも 口のさやけき」
また博士は、雪椿をこよなく愛し、楽縫庵の敷地内に500種を超える雪椿を育て、その保存にも尽力しました。庭内には雪椿を詠んだ歌碑が残されています。
「こしのくにのしるしのはなの 雪椿 ともがきこぞりて 植ゑみてませり」
博士は97歳でこの世を去るまで、衰えることのない好奇心と探求心を持ち続け、「坂口ワールド」を創りあげていきました。
雪椿園に残る歌碑 「こしのくにのしるしのはなの 雪椿 ともがきこぞりて 植ゑみてませり」
坂口博士の詠んだ歌(色紙) 「うま酒は うましともなく飲むうちに 酔ひてののちも 口のさやけき」 ほか