上越にスキーが伝えられた明治時代の終わりごろ、活気を失いかけていた高田の町は、陸軍第13師団が置かれたことでふたたび賑いをとりもどし、近代的な町へと生まれ変わろうとしていました。師団がやってくる前の1893年(明治26年)には、全国に先がけて信越線が全線開通し、1907年(明治40年)には高田・直江津・新井まで初めて電灯がともりました。
師団がやってくると、様々な商店が高田に店を構えるようになりました。朝市が立つようになり、映画館や写真館がつくられ、洋風の建物も増えていきました。高田城址公園に桜の苗木が植えられたのも、このころのことです。
師団による積極的な働きかけもあり、たちまちスキーは民間の人たちにも受け入れられていきました。レルヒが来たその冬のうちに、現在の全日本スキー連盟のもととなる高田スキー倶楽部が結成され、スキー板の生産がはじまり、スキー民謡などの歌謡曲やスキーせんべい・スキーあめ・スキーようかんなどのおみやげも品ぞろいしていきました。
こうして、スキー産業は上越の一大産業となっていきました。
高田におかれた陸軍第13師団司令部(現在の上越教育大学附属中学校付近)
明治の終わりから大正時代にかけての新聞広告