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室孝次郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

勤王の志士が信越線開通に貢献

室 孝次郎(むろこうじろう)

生年1839 没年1903

勤皇の志士

室孝次郎は、1839年(天保10年)高田本誓寺町(現上越市東本町4)の商家の長男として誕生しました。幕末から明治維新へ向かう騒がしい時代に少年期を過ごした孝次郎は、 文武済美堂(ぶんぶせいみどう)に学びながら武芸にも秀でた多感な青年に成長します。
ときは幕末、国学を学んでいた孝次郎は天皇中心の政治体制を志す「勤皇」の考えに立つようになります。そのため、京都の公家や勤皇の志士たちと親交を持つようになりました。
1867年(慶応3年)、将軍徳川慶喜が大政奉還を行い260年あまり続いた江戸幕府が倒れると、旧幕府軍とそれを助ける立場をとる東北諸藩、そして新政府側に立つ西南諸藩との間で戊辰戦争が始まります。孝次郎は旧幕府軍側の立場に立つ長岡藩や会津藩と戦うため北上してきた新政府軍に合流し、自らも地域の有志を募って 方義隊(ほうぎたい、のちに居之隊)を組織し、戦場へ赴いたのです。

地域振興のために

時代は明治になり、孝次郎たちの勤皇の初志は果たされました。その後の孝次郎の熱意は、上越地域の振興へと向けられていくことになります。
まず、高田藩の役人に取り立てられ藩校修道館で後進の指導に努め、高田県が柏崎県に統合されると地租改正事業にあたりました。また高田病院(現新潟県立中央病院)の設立にも力を尽くし、大区長や西頸城郡長を歴任しました。

信越線の開通から国政へ

このころ、上越地方では鉄道開通の機運が高まりつつありました。1883年(明治16年)、西頸城郡長の職を退いた孝次郎は、およそ600人の有志を募り、私鉄としての信越鉄道発起会を催して資金を集めましたが、国はこれを許可しませんでした。さらに孝次郎たちが働きかけを強めたため、国営鉄道の計画が進み、 1885年(明治18年)には直江津新井間が、さらに 1889年(明治22年)には軽井沢まで開通しました。
全国の鉄道網に先立って信越線は開通し、地域の発展のために大きな力となったのです。孝次郎ら上越の有志の力があったことは言うまでもありません。
政治家としての孝次郎は、1881年(明治14年)頸城自由党に参加し、のちにこれを脱退して上越立憲改進党を組織しています。1890年以降、合わせて5期衆議院議員を務め、国政にも貢献したのでした。

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